もう間違えたほうがいい〜アートパラ深川に寄せて
朝起きて、惰性に身を委ねて支度を整える。満員電車に乗り込んで、職場の最寄り駅までを耐え忍ぶ。
退勤しても考えるのは生存のこと。明日の食材や、洗濯のタイミング、顧客との懇親会のセッティング……。
そういう生活の中で、視野はどんどん狭くなっていく気がします。日常的に関わる人は、何もしなければ減っていくし、コミュニケーションを取る相手が限定されるほど、思考は先鋭化してしまう。
そういう自分に対する恐怖と、諦念を、誰しもが心の片隅に抱えてるんじゃないかと、ぼくは思っています。
そんな、慣れ親しんでしまった息苦しさに、爽やかな風を、ふっと吹き込んでくれたのが「アートパラ深川」でした。きっと大袈裟に聞こえると思うけど、真面目に。そして、もしかしたら、その風はささやかな、すぐに感触も忘れてしまう類のものかもしれないけれど。
今月から、初めて「アートパラ深川 おしゃべりな芸術祭2024」のボランティアスタッフとして参加しています。
参加のきっかけは単純で、ぼくは協賛企業グループに勤めていて、全社的にメールで募集があったから。住んでいる場所が近かったから。「共に生きる」という理念のもと、下町のそこらじゅうをギャラリーに見立てる手法に、純粋に興味が湧いたから。
少なくとも、正義感めいた、使命感めいた高尚な何かは、そこにはなかったです。はっきり言えば成り行きだし、たまたまスケジュールも合ったし。その程度です。というか今も、別にそういう感覚はない。
でも、実際に活動をしてみて、自分が今まで見えていなかった社会課題が、実感を伴う形で肉薄してくる感覚がありました。
例えば、ちょうど今日から富岡八幡宮で展示されている「みんなのアート絵馬」。
展示に向けて、絵馬をひとつひとつ、ボードに設置していたときのこと。表現の仕方は様々だったけれど、一定数の絵馬は表にイラストを描いて、裏にお願いごとを記してあるイメージです。
粛々と作業を進める中で、絵馬はそれぞれ個性があって、ボランティアのメンバーもときどき手を止めて「これ見てください」「可愛いですね」「素敵ですね」のような会話をしていました。
しかし、願いである以上、思わず言葉に詰まるようなものもありました。ぼかして紹介するならば、肉親の帰りを待つ内容や、ささやかな日常を切望する内容。
これまでの人生で、それらが自分ごとになる瞬間はなかったし、今の自分のコミュニティの中にも、障がいがある方とつながっている縁はありませんでした。(あった上で見ないふりをしていただけ、が適切かもしれないですね)
だから、今まで見えていなかったもの、見なかったものが、可視化されるような感覚がありました。そりゃあ、問いとして投げかけられることがあれば、そんな家庭がどこかにあるのは想像できたでしょう。
でも、やっぱりその温度までリアルに思い描くのは難しい。
胸を刺すドキュメンタリーもよいけれど、和やかに、無邪気な願い事を見ている中で、ぽつりと漏れるような本音が現れる。結果的に、そういう現実が如実に現れていました。
でも、このあたりの思いを言葉にするのは、すごく難しいです。
ぼくは善行がしたいわけじゃない。手の届く範囲の周りの人が、より温かい陽だまりのなかにいてほしい。そのために、実利として何を産めるのかも重要だけれど、自分が納得できるような行動をしたい。
社会課題を痛切に受け止めて、認識を広めようとする論調は、あるべきものなんだと思うけど、少し肩身が狭くなることもあると思います。
自分の無知を責められるターンから入ると、どうしてもその次の行動が贖罪みたいになってしまう。逆説的に、自分ごとにしづらくて、行動が義務感めいてしまうこともあるかもしれません。
もちろん、それでもなお、問題の深刻さをメッセージとして発信することに、大きな意義はあると思います。ぼくが言いたいのは、そういう方法と並行して、「知ってもらう」アプローチは色々あってよいよね、ということです。
そこで、アート?と思う気持ちが、ぼくにも分かります。
実際、一度そう思ったので。
でも、アートパラ深川に関わって「アートでなくてはならない」「アートにしかできない」ことがあるんだと知りました。
全身が思うように動かせない方が、全身に絵の具をつけて、体が動くままに彩ったアートや、自分が見えるままに描いた世界。
そして、それらは、情報として伝えられるよりも、作品として提示される方がずっと、ずっと雄弁です。そして、その先にいる、触れれば温かい人間が、容易にイメージできる。
ときには、作品のメッセージに共感したり、胸を打たれたりすることもあるでしょう。あるいは、ただ好きな作品をじっと見るのも、当たり前によい体験だと思います。
そして、アートパラと銘打たれているけれども、それらの作品が「健常者とそれ以外」という垣根を、これ以上ないほどに取り去ってくれることも、このイベントが大好きになった理由のひとつです。
一見、それは「社会課題を可視化する」と先に挙げたポイントと矛盾して聞こえるかもしれません。
でも、全体のコンセプトがどうあったとしても、街に並んでいるのは、ただただ純粋に、作品たちです。作品そのものはもう、創った人の手からは離れて、何者がどういう意図で描いたのか、そんな補足情報からは自由になる。
それは、絵画のキャプションに似ているかもしれません。ふと気になって足を止めた絵画のキャプションを見て「これは作者が晩年に描いたものなんだ」とか、「だからやけにさびしい雰囲気があるんだ」とか、そんな「つくり手に対して一歩踏み込む」ようなイメージ。
つまり、一歩目の純粋なアート体験に、描き手がどんな人で、どんな意図だったのかは関係がない。でも、作品の全ては「アートパラ深川」という傘のもとに町中に展示されているし、踏み込めば、作者について掘り下げることができるでしょう。
その可視化と垣根を取り去るバランスが絶妙だし、これが街全体でのプロジェクトであることも素晴らしい。
「この絵かわいい。なんのイベントだろう?」と、そのまま、プロジェクトを知らないまま家路につく人もきっといると思う。でも、それくらい自然な共鳴を、垣根のないつくり手と鑑賞者の交流を、生み出せるってすごいことじゃないですか?
ずっと、何か意見を表明したり、行動したりすることが怖いです。
どうせ責められるなら、何かをして責められるより、何もしないでいて、それを怒られる方が気が楽だから。
でもそれは、他人に、自分の行動の評価を任せてしまっているのと同義だなあと思います
仮に、踏み出した一歩が、のちに間違いだと評される道だとしても、行動に移したい。何もしないよりは、自分が直感的にやりたいと思ったことに手を伸ばしたい。
そうやって体を動かして、ゆくゆくは、自分を、自分の人生の当事者にしたいよ 傍観者じゃなくてね
27日までやってるので、あなたもぜひどうぞ!
深川、いいところだよ