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カテゴリ化という働きについて考える

最近妙に頭から離れないのが、カテゴリ化という言葉だ。もしかしたら、これこそが人間の認知機能における最大の問題なのではないか。カテゴリ化とは、別々のものを、ある理由によって、同じものだと判断することだ。自転車も自動車も、車輪で走る車である。とか。帰納的推論とは、たくさんの個別事例をもとに抽象化をするとはよく言われるわけだが、おそらく、驚くべきことに、人は二回ものを認知したら、おそらくその時点でカテゴリ化を発動する。三つ目の事例はそのカテゴリを強化するために探すようなところがある。ハンマーを持った人間は釘を探す。あるいは、聖闘士に同じ技は二度通用しない、という言葉も似たような何かを感じる。

また、もしかしたら、一回の認知でも、カテゴリ化をしているような気もする。なぜそれが可能なのかと言えば、カテゴリは毎回ゼロから立ち上げるわけではなくて、カテゴリ自体にも体系があるし、新たなカテゴリを獲得するとはいっても既存のそれを組み合わせたりカスタマイズするだけのことであることがほとんどだからだ。ある事例を見た瞬間、既存の意味体系のどこにそれが位置するのかを瞬時に検索する。まるまるスッポリあてはまるカテゴリがあればよし、なければその場で作ってしまう。と、こういう具合なのではないか。意識とは、カテゴリ不在によるアラートなのではないか。逆に言えば、感覚器官を通して得られた情報について、それがあてはまるカテゴリをマッチングする過程は、通常、意識すらされない。

ただ一つの事例からカテゴリを生み出す過程で何が起きているのか。おそらく、その事例の特徴量と、既存のカテゴリの結合によるカスタマイズなのではないか。バイアスとはそうして生まれたカテゴリによる効果なのではないか。

くもりなきまなこで、先入観なしに、そのものをそのもとして個別的本質をとらえる。概念的バイアスを一切発動させない。マラルメはそこに「黒々とした塊」を見たという。もしかしたらそれは、無限に降り注ぐ特徴量をそのまま感受するということなのではないかという気がする。言語的思考プロセスを一時的に遮断すれば、その意識状況は再現できるのではないか。赤ん坊はまさに、それをやっているといえなくもない。あるがままにそれを受け容れているように見えるし、楽しんでいるようにも見える。まあ、概念体系をインストールする前段階なので、違うと言えば違う。

ちなみに、2歳半になる次女は、「いっちょだね」ということが大好きだ。親と同じものを食べることを喜んだり、イラストのパンダとぬいぐるみのパンダが「いっちょ」だと言って喜ぶ。いないいないばぁを自分でやって、親にもやらせて、「いっちょ」だと楽しむ。そこに言葉はないが、明らかにカテゴリ化という思考の働きが発現している。言葉を知ることも、作ることも、カテゴリ体系を豊かにする作業であり、これが継続的に行われている状態を、頭が柔らかいと言う。歳をとると硬くなるというが、柔らかく生き続ける人もいる。それは、意識が外を向き続けているかどうかの違いではないか。

カテゴリ体系を自由自在に操作することが、人間の人間らしいあり方である気がする。例えば、蟻なんかを見てると、遺伝的な変異によらずにカテゴリ体系を更新することはなさそうに見える。犬や猫には、少しばかり近い働きがあるように見えるが、極めて限定的であることは間違いない。

カテゴリ化は、もの、つまり名詞的なもの、つまり変化しないもの、客観的なもの、タナトス的なものだけを対象にするのではなく、こと、つまり出来事や手続き、つまり変化するということ、主観的なこと、生きるということ、エロス的なことに対しても働く。きっかけになるのは特徴量、つまり形容詞的なもの、つまり属性である。属性は属性であり、属性はカテゴリ化されない。細分化はある。黄色は黄色であり、赤は赤だ。黄色も赤も暖色系とくくられることはあるが、黄色も赤も、暖色系だから似ているとは言わない。もちろん、例えばプリズム分光されたそれぞれの連続的なすべての色に名付けることはできないが、どこかにえいやと切れ目をつけて、赤とか青とか呼ぶ。それは、誤差を「丸める」行為ににている。

属性によってこそ個別の実存とカテゴリは結びつくし、異なるカテゴリ同士を結びつけることもする。

設計学とは、あるいは設計とは、属性によってカテゴリ同士を結びつけ、操作し、新たな属性やカテゴリを生み出す認知の機構や過程をhackすることではないか。だとするならば、まず問われるべきなのは、属性の「取り出し方」である。そこになおそらく人によって全然異なる癖のようなものがある。常時、全入力情報についてあらゆる特徴量を解析していたのでは、計算資源がいくらあっても足りない。おそらくある程度のカテゴリ把握が先にあって、それを前提とした特徴量の抽出を行う(注意を向ける)、といったことがあるのではないか。または、直前の状況との差分解析を常に行なっていて、変化が検知されてはじめて注意が向けられる、といったプロセスも考えられる。

考えてみたら当たり前の話で、思考が始まるトリガーとは常に「違和感」つまり、異なっている=同じでない感覚、なのである。

思考とはなにかと考えだすと頭がこんがらがるのは、上述したような認知プロセスが再帰的に構成されているからだと考えられる。フロー図のようなもので記述するあまたの試みが試みられてきたことだと思うが、成功した例はないのではないか。しかしもしかしたら、案外それが実現することもあるのかもしれない。

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