不眠と仏道修行の共通点
眠れないとき、なにが辛いかというと、眠らなきゃ、とか、眠りたいのに、とか、どうしたら眠れるのか、とか、えんえんと抜け出せない自問自答に陥り、そこから抜け出せないことである。
この自問自答って、悟りを開きたい、とか、悟れるかな、とか、どうしたら悟れるのか、とか、えんえんとやってるのと、似てるんじゃないかなと思った。
多分、長い歴史のなかで、仏教界は、見性というものを神秘化し過ぎたのだと思う。
身の回りの人のために、いま、できることをする。過去も未来も思い煩わない。日常を大切に、かつ、淡々と生きる。悟りって、それ以上でも、以下でもない。
たぶん、悟りの境地ってやつは、年相応に成熟したら、誰だって到達するのだ。
誰だって、年齢の割に未熟な人間と接すると、見苦しいと感じるものである。若くして老成するのも、妙な感じがする。やはり、60ぐらいで悟るのがちょうど良さそうだが、いまは人類全体が若返っているので、72ぐらいまでかかるのも仕方ないのかもしれない。
悟りって、多分、そんなに特別なことではなくて、誰だって、真っ当に苦労して生きてさえいれば、普通に到達するのである。
色んな人が、仏教を学問やらビジネスやらにしようとするなかで、なにかご大層なものに仕立て上げてしまったのだろう。
悟ったさきには楽園がある、みたいな期待で、悟ろう悟ろうとして、かえって遠ざかる未熟な人間の、なんと多いことか。
睡眠もまた同じ。
身体が求めたら、眠りに落ちる。そこには理屈も屁理屈もない。