肩書きのない自己紹介②
2020年に書いた肩書きのない自己紹介。
たくさんの人に見ていただき、とても嬉しく思っています。
二年程前からもう一回書こう、書こうと思っていましたが、
やっと自分の中に大きな変化が生まれてきたので、筆を取ってみます。
怒られると、一人で宇宙に行きます。
怒られたり、強く言われることが非常に苦手です。それが正しかろうと間違っていようと、相手の強い怒りを感じると、パニックになります。頭が真っ白に、身体が固まり、世界から飛び出てて暗い無限の宇宙に浮遊しているような、感覚になります。おそらく、父の影響。怒りを向けられることは、もうすでに絶望を意味します。一生変えられないと思います。
楽しい時はわかりやすく表現できますが、悲しい時はあまり表現できません。
楽しい時の表現は、とてもわかりやすいと思います。無邪気とかおちゃめという言葉がよく似合うような時間があります。一方で、悲しいことを表現するのは少し苦手で、主張ができずなんとか我慢しようとすることがあります。楽しみは三倍にできるから、悲しみを半分にできるような関係性が欲しい。
お腹が減ると、すんごくダメ人間になります。
空腹が最大の敵です。朝ごはんを食べなかった日の11時頃。または昼ごはんが麺類だった時の17時半頃。普段は割と穏やかな方ですが、お腹が減った時は悪役の形相になります。恋人と口喧嘩が起こる場合はいつもこの時です。最近ジムで計測して、とても代謝が良いということがわかりました。もしいつもより笑っていないなあ、お腹が減っているなあと思ったらオムスビを与えてください。
ジャズのように場面的で、即興的な雑談が好きです。
雑談は、少しズレた例えや共通の記憶を使って、あちらこちらに右往左往するのが好きです。一緒にいる人、それぞれの体調、時間帯、場所、流れなどによってその時ならではの演奏のように会話を響かせていくことがなんだか楽しいと思うようになりました。儚さを感じているのだと思います。相手とやりとりするキャッチボールというよりは一緒に行う玉入れのような感覚です。これは大学の後輩たちの会話からこっそり学んだことです。
耳で学習し、目で思考します。
日常的な新しいことのインプットはPodcastやYoutubeの音源によって行います。ですが、音のままでは覚えたり考えたりできないので、それをイメージに変えて思考・記憶します。発言する時も、それを頼りに話すので、うまく言葉が出てこないことがしばしばあります。なので、即興的な会話での返答より、slackなどで文字や画像を使って返信する形の方が得意です。少し待ってみてください。
ふたりで食事をするときは、隣に座りたいです。
友人でも、恋人でも、そうなる可能性のある人でも、食事をするときはテーブルじゃなくてカウンターがいいです。正面に座ってご飯を食べるのは、長年一緒にいる恋人でも落ち着きません。隣だと、安心して自然体でいられます。正面は敵対視してしまうという話もありますが、「二人が向き合う」のではなく、「世界と二人で向き合っている」と状態が好きなのです。猫背になってきたら、もうそれは完全なお許しです。ひとを好きになる時も私への態度ではなく、その人の世界との向き合い方に好きになります。
自分のひたむきさが好きです。でも、続かないことに苦労します。
自分のなにが好きかと言えば、ひたむきさ。誠実ともがむしゃらとも少し違う、その言葉を自らが感じる時、身体の血がいつもより気持ちよく流れていると、感じます。それはとても衝動的なものなので、ふとしたことで血が止まり、意欲も自信も無くなってしまう、それを常に恐れているともいえます。
音楽は好きですが、音感はありません。
ドレミファの「ファ」より「レ」が低いというのが感じられないし、ピアノの「ド」とギターの「ド」が同じ音ということがわかりません。全ての音が固有で、この楽器のこの強さで弾くこの音は好きだけど、それが「ド」なのか「レ」なのかは知らない。そして、「ド」と「レ」の間の名前のつかない音も、ちゃんと立派な音に聞こえている。滅多に行かないがカラオケに行く時は、「音が外れている」というのはわからず、無数の星から掴むように「音をとりにいく」感覚でなんとか歌います。
小学校四年生以前の記憶がありません。
母が担任の先生と「ゆうぎは毎日泣いていますが、大丈夫なのでしょうか。」「大丈夫です。ゆうぎくんは、感情が豊かなんです。」と会話をして、強く安心したらしい。それが小学校四年生の素敵な先生との話。福留先生。毎日をこの日しかないものだとして生きていたから、感情が溢れてしまっていたのだと思う。少しだけヨガをしている時のマインドフルネス状態に似ている気がする。
懐かしさに思いを馳せるが好きです。
毎日ベッドでその一日のなにげない誰かの言動を振り返ること、お風呂で過去の思い出を振り返ること、昔からゆるく続く友人にふと連絡をすること、過去にもらった手紙や物を大事にすること、昔のおおきな出来事の断片的な記憶の違いをワイワイ話すこと、そういう私の心を人質にしているものを懐かしむ時間が大好きです。いまでもいっぱいだから、五十歳になった時はどうなることやら。想像するだけでひやひやわくわく。
実績を積んでも、何かをつくる側でも、常に生活者です。
これは最近気づいた自意識のこと。いい大学を出て、いい企業に勤めて、もし今後どれだけステップアップしても、庶民で、生活者であることは揺らがないと思う。キラキラした世界は随分遠い。特別なモノではなく、生活の中にあるモノを楽しんでいく。地に足をつけて、隣人を愛しながら生きていく。
四年前のも好きだけど、今回もよくかけた!