40歳からのずぼら妊活ガイド〜IVF編⑤

いのちのストック

前回の投稿から、自分でも呆れるほど間が開いてしまいました…(ずぼら健在)。気がつくと、よちよち歩きの赤ちゃんだった娘はすでに、立派なイヤイヤ期の二歳児に。さらには、私が46歳の誕生日を迎える少し前に、元気な男の子の赤ちゃんが産まれて、我が家は4人家族となりました。

ちなみに、今回産まれた息子は、娘と同様、私が41歳の時に凍結した3つの受精卵のうちのひとつ。娘は「低モザイク胚」、息子は「正常胚」と診断された5日目胚盤胞でした。これまでお読み頂いた方は覚えてくださっているかもしれませんが、息子は私が不妊治療を始めて最初に凍結した胚盤胞です。したがって、生まれたのは娘の後ですが、息子の方が先にこの世にやってきていて、私の子宮に入るのを今か今かと、クリニックの冷凍室で4年近くも待っていてくれたことになります。今回はそこに至るまでの経緯を遡って書いてみたいと思います。

受精卵凍結までの経緯はこちらからどうぞ。↓

2019年の年末に、3度目の採卵・体外受精ののち、着床前遺伝子検査で「低モザイク胚」と診断された5日目胚胎胞。後に我が娘となるこの奇跡的な生命体を凍結したまま、釈然としない気持ちで新たな年を迎えた私は、コロナ禍の一年間でさらに3回の採卵と体外受精を繰り返しました。ところが結局、この時の「低モザイク胚」が私にとっては最後の胚胎胞となったのです。

というのも、2020年に採取した受精卵たちはただのひとつも胚胎胞まで到達しなかったからです。年齢的に私の卵子たちがもう限界だったと考えることもできるのですが、今振り返ると個人的にはとても不思議な経験だったと言わざるを得ません。

とりわけ、2020年に行った初めの2回の採卵のことは今でも忘れられません。コロナの影響で、それまで全米を飛び回っていた仕事もすべてストップし、充分に体調を整えて臨むことができたせいか、2回とも理想的なホルモンレベルを維持したなかでの採卵でした。しかし、1回目の採卵時、左右の卵巣に合わせて4-5個あった卵胞のうち、直径20mmほどの申し分ない大きさに成長した大本命の主席卵胞から卵子を採取しようとしたとき、Dr.Changが急に「なぜか採卵できない」と言い出したのです。

採卵の様子を映し出す壁面のスクリーンを施術台から眺めていると、いつもは神業のように手際よく採卵していく彼が、この主席卵胞には珍しくずいぶんとてこずっている様子でした。採卵では超極細の注射針を卵巣に差し込んで、卵胞中にある卵子を針の中に吸引するのですが、その卵子がまるで、卵胞の壁に意思を持ってピタっと癒着してしまったかのように動かないのです。根気よく何度となく吸引しようとしても、まるでびくともしません。

そのため、Dr.Changは主席卵胞以外の卵胞たちからの卵子を先に採取して、最後にもう一度この頑固な卵子を採取すべくトライしてくれましたが、やはりテコでも動かない。それ以上は出血によるダメージを避けるため、結局、施術を諦めなければなりませんでした。Dr.Changにも卵子が動かなかった原因がわからず、こんなことは初めてだ、と驚きをもって釈明されていました。

経験上、私の数少ない卵胞から採取される卵子のうち、正常に受精して5日目胚胎胞になるまで生き残れるのは、結局は主席卵胞から取れるものひとつのみだろうと予測を立てていた私は、この結果にひどくがっかりしました。なにしろ、最初から本命を取り逃がしてしまったのですから。その日は、不合格と分かっている試験からの帰り道のように自失茫然とした気持ちで夫の迎えの車に乗り込んだのを今でもよく覚えています。

そして驚くことに、その数ヶ月後に挑んだ再度の採卵でまたしても、これと全く同じことが起こったのです。2度も続けて起こるとは思えないほどの珍事に、残念を通り越して、憤りを感じるほどでした。それが決して誰のせいでもなく、Dr.Changが全力を尽くしてくれたことは十分にわかっていたはずなのに。

よし、こうなったら、3度目の正直だ。そう気を取り直してさらに数カ月後に挑んだ42歳最後の採卵。もし上手く行かなくても、これで採卵は最後にしようと決めていました。結果的に、この時は主席卵胞の卵子も含めて3つ採取できたのですが、いずれも5日目になっても胚胎胞には至らず、6日目には退化してしまいました。2020年の採卵はすべて失敗に終わったのです。

「もういいかげん、前に進もうよ。」

自分の身体から、はっきりそう言われている気がしました。主席卵胞のなかで意固地になっていたあの卵子みたいに、「完璧な正常胚をなんとかもう一つだけ!」としつこくこだわり続けた頑固な私に、後日、Dr.Changはあらためて静かに問いかけました。

「君たちは、何人子供が欲しいと思っているの?」
「それは…1人でも。無事に生まれてくれるなら」
「それなら、今ある胚を移植してさっさと卒業しなさい。きっと上手くいくから」
「あの低モザイク胚の方はどうしましょう?」
「まずはあれを試験的に移植してみよう。可能性は五分五分だが、入れてみないとわからない」

そもそも3つある胚胎胞のうち一つは異常胚ですから、妊娠が継続する可能性があるのは2つだけ。つまりチャンスはたったの2回です。そしてそのうちの、より可能性が低いほうを試験的に先にトライしようと言うのです。確率は五分五分。しかし、もう前進するよりほかに道はありません。私はすでに43歳になっていました。

そして2021年の春、私は初めて凍結胚を移植し、幸運なことに、無事に娘を妊娠することができました。高年齢での低モザイク胚移植ということもあり、いつ流産しても不思議はない状況でしたので、トイレにいくたびに出血していないかヒヤヒヤしていました。それでも10週まで妊娠を継続できた時には本当に嬉しかったです。

その後に受けた染色体検査でも正常との診断がおり、低モザイク胚だった娘はいつのまにか立派な胎児になっていました。妊娠中もとくに問題なく、40週と5日で私たちのもとに生まれてきてくれた娘はいま、人一倍元気なお転婆娘に成長しています。

そして、前回の移植から約2年後に移植した正常胚のほうは、40週と4日後に、身長51センチ、体重3540gの大きな男の赤ちゃんとなって産声をあげました。母乳をよく飲み、夜もぐっすり眠ってくれる子で、順調にすくすくと育っています。

結局、2年間で移植可能な受精卵は二つしか育たなかった私の不妊治療。それでも、その二つの小さな希望の舟に乗って、2人の子供たちが私たちのもとへと渡って来てくれたことを思うと、すべてが奇跡のような旅でした。

私が、あと一つだけ、あと一つだけ、と、安心したいがためだけに度重なる採卵と失敗を繰り返していたときも、2人はきっとずっとスタンバイしてくれていたのに、母はなんと利己的な、そして不毛な努力をしていたのでしょう。

今でもときどき、主席卵胞のなかで辛抱強く抵抗していたあの卵子たちのことをふと思い出します。もしかするとあの卵子たちは、2人の子どもたちがずっと待ってくれていることを知っていて、これ以上は無駄にいのちのストックはできないんだよ、ということを、不遜な私に教えようとしてくれたのかもしれません。

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