【URコラム】いまイランへ思うこと。
※『URBAN RESEARCH Media』にて2020年1月20日に掲載された内容をここに残す。
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世界が揺れている。安寧の中で年を越せたと思ったら、急速に戦争の足音が聞こえてきて怖い。それは紛れもなく人の足音。
※(写真1)同じイスラム圏であるトルコ・イスタンブールからイランの首都・テヘランへ向かう。
僕は昨年の夏、イランを訪れた。いち旅行者としてだが、初めてその地を踏んだ。十日間ほど各地を見て回った。
日本の友人らが心配する中、僕は「アメリカとイランの戦争が始まる前に行ってくる」なんて冗談で言っていたら本当にこうなってしまった。勿論そんなことは全く望んでいない。現地に行ったからこそ今は余計に言える。
イラン国民は戦争なんて望んでいない。
■国家という幻想
※(写真2)ヤズドという街の郊外にあるゾロアスター教「沈黙の塔」。現在はイスラム国家となったイランも、その昔はゾロアスター教という世界最古の宗教によって大部分が構成されていた。現在もゾロアスター教徒はイランに住んでいるし、少数であるがユダヤ教徒も住んでいる。
「国家」や「国境」はそもそも人間の創り上げた幻想だと思っている。
昔はなんとなく同じ言語・同じ民族の人達が集まってその辺りに住んでいて、丘の向こうや川の向こうに行けば、そこにはまた、似通ってはいるけれど少し異なる言語と少し異なる顔をした人々が住んでいた。
かつてこの星には「国家」も「国境」も「法律」もなかった。でも人々は田畑を耕したり獣を仕留めたりするために使っていた道具を、今度は武器として使い始め、争うことを覚え、奪い合うことを覚えた。そうなると「国境」を設定した方がそうした人間の負の部分を抑えられると考えた。だから「国境」、つまり「国家」を制定した。エリア分け・住み分けだ。
制定したら次はあらゆる「正当っぽく聞こえる理由」、つまりは『大義名分』を振りかざし、お互いの土地を奪い合った。良い知恵もあれば、悪い知恵もある。これが戦争。
大義名分という言葉は本当にキナ臭くて、大嫌い。
でも今回の戦争の火種は明らかに「国境の浸食」や「土地の略奪」が目的ではない。アメリカはイランの土地が欲しいのか?イランはアメリカの土地が欲しいのか?——違う。
じゃあなんで?それは「国家の意地のぶつかり合い」や、結局の所、国家の『自己主義』にしか他ならない。
——オイルマネー。大統領選挙。国内世論のガス抜き。
僕はそんな国際情勢や政治経済に詳しいわけでもないけど、いち旅行者として『イランはもう一度行きたい国』と心から思っている。イランの美しさを壊されるのは許せない。そしてその美しさは「イラン国家」が作り上げたものではなく、歴代の「イラン国民」(しいてはペルシャ民族)が作り上げてきたものである。
■国家と国民
前提として「国家」と「国民」は全く違う。
首長は「国家」を代表し発言するが、その発言は「国民」の真意ではない。(理想論としてはそうあるべきなのだが。)
安倍総理が「憲法を改正したい」と言っても、それは日本国民の総意ではない。彼が日本丸の難しい舵取りをする中での意志なだけ。もっといえば、国家の意志と、首長の意志と、国民の総意なんて、全く異なっているのが現状ではないだろうか。
つまりアメリカのイラン司令官殺害も、イランの米軍基地報復攻撃も、アメリカ国民やイラン国民が望んだものでは決してないだろう。
■現イランは新しい国家(1979年イラン革命後)
※(写真4)レストランで見つけた大家族。女性の会だったようで、親子三代に続く家族の中に、男の子がひとり、みんなの前で踊りを披露してくれた。
日本は「革命」のない国なので「革命」ということに疎い。
「革命」とは簡単に言うと、これまでの王様を追い出し、新しい王様(=新しい王朝)や別の指導者(総理大臣・大統領・軍政)が誕生すること。フランス革命では王様が処刑され絶対王制が終わり共和制に移行したし、イラン革命でも同じように、それまでいた“王様”が追放され、イスラム最高指導者という元首を中心とする新しい体制へとなった。つい40年前の話。
「40年も前か・・・」と思うかもしれないが、いま50歳の人は10歳までの世界とその後の世界が違うわけだし、僕みたいな36歳の人間は“革命後世代”だとしても自分の両親(70歳前後)はしっかりと“革命前”を生きてきたわけで、きっと『昔はこうだった・・・』と親子で語られているに違いない。
「国家や法律が変わっても人々の心が変わるまでは想像以上の時間を要する」というのが僕の持論。それほど人々の心はノスタルジーに溢れている。
僕は2011~2014年くらいまで東ベルリンに住んでいたが、まだまだ人々は1990年に無くなった“東ドイツ”に想いを馳せていた。日本人でも「昭和がよかった」と平成世代に語る人間は山ほどいる。それこそノスタルジーの伝承。
ちなみに日本の大政奉還(明治維新)は、天皇という“王様”を追放したり処罰したわけではなく、天皇の下に将軍様がいた体制が、天皇の下に政治家(総理大臣)がいる体制になった政治体制の変化であって、これは「革命」には当たらない。
■イラン国家は「反米」。イラン国民は「親米」?
※(写真5)旧アメリカ大使館。今では博物館となっており、内部に入るとアメリカがいかにイランへテロを仕掛けてきたかの展示が楽しめる。
革命前のイランは実は大変な親米国家であったそうだ。第二次世界大戦後、日本の高度経済成長のように、イランも近代化=欧米化を進めようとし、ちゃんとアメリカとも国交があった。僕は首都テヘランの“旧”アメリカ大使館に行ったが、そこは博物館になっていて中まで入れる。
が、革命後のイランは一気に”反米国家”へとなった。まさに革命的な国家戦略の変化。無論、今もアメリカとは断交状態。アメリカ大使館はイランにはない。現在、アメリカ人は基本入国できない。イラン人も基本的にはアメリカに行けない。イランではFacebookも使えない。
しかしどうやら面白いことに、イランのインテリ層はアメリカに留学しているそうだ。まあ、現代の日本にも国交のない北朝鮮がルーツの人々が住んでいてもおかしくないように、やはり「国家」と「国民」は違う。「国家間」は断絶していても「国民間」は何かしら交流し続けている。
もっといえば、イランにいても街中でCoca-Colaは普通に飲めるし、タクシーに乗ればジャスティンビーバーが流れてくるし、Instagramは大流行(※InstagramはFacebookの傘下)。イランにいても勿論ネットもスマフォも繋がるのでハリウッドの映画も見れる。国民行動の“抜け道”なんていくらでもある。国家はそれを苦々しく思っているだろうが。
イラン人に「どの国の観光客が多い?」と聞いたら、ヨーロッパ系や隣国イラクの人が多いそうだ。そしてアメリカ人も来ると言っていた(!)。どうやらスイスのイラン大使館経由などでアメリカ人でもイラン観光ビザが取れるそうだ。僕はジャスティンビーバーの流れるタクシーの中で、「ナニジンであってもイランに来てくれたらみんなゲスト!ホストするのがイラン人のいいところさ!」と笑ってくれた運転手の笑顔を思い出す。さすがはペルシャ商人の血。
■イランには2つの軍隊がある
※(写真6)街を走っていると様々な人々の顔の載った看板が目につく。タクシードライバーに聞いたところ、イランイラク戦争で殉死した戦士達だそうだ。
こうした革命の歴史を持つイランには現在、2つの軍隊がある。「国軍」と「革命防衛軍」。これがまたイラン情勢を理解するのをややこしくしているが、どちらの軍が動いたかによって、見方も全然変わる。
日本人的にわかりやすく言うと、
●国軍・・・大統領系。日本の自衛隊のようなもの。政府系。
●革命防衛軍・・・最高指導者系。天皇直轄組織のようなもの。
両方ともイラン国家が保有する公式軍隊であるが、「大統領=国軍」と「最高指導者=革命防衛軍」はどうやら一枚岩ではなさそう。もちろん、両方とも最終的には最高指導者が最高司令官になるのだが(ややこしい)、イラン革命後に国のトップとなった最高指導者にとっては、国軍がいつ裏切って国内でクーデターを起こすかもやしれないため、革命を起こした同志達をベースに自身の下に軍隊を独自に結成したようなもの。それが革命防衛軍。
革命防衛軍と国軍は、お互いを監視しあっているとも言える。
ちなみに今回、アメリカに殺害された司令官は「革命防衛軍」の人。そりゃあ革命防衛軍、つまりは最高指導者はカンカン。そしてイラクの米軍基地に攻撃したのも「革命防衛軍」。「国軍=大統領」サイドはまだ頭が冷静で動いていなさそうなのが現状。
イランのこの二重軍隊の事情も、国内情勢の難しさを物語っている。
もし、大統領や国軍までも大々的に動くことになれば・・・
■「経済制裁」と「国内情勢の不満」を感じてみる
僕がイランに行った昨年夏はまさにアメリカによる経済制裁下。では「経済制裁」とは実際何なのか?
まず単純に、通貨の価値が日々変わっていくということ。例えば昨日は「1ドル=100円」だったレートが、今日には「1ドル=150円」になっていたりする。なんなら、こうした一種の“インフレ”によりイランの現地通貨リヤルのお札が全然足りていないのだ。正規の両替屋に行って「手持ちのUSドルをリヤルに替えて欲しい」といっても、どこもかしこも『今日はリヤルが無い』と言われた日が数日続いた。(ちなみにイランではVISAカードもMasterカードも無論アメックスも全て使えない。イラン企業以外のクレジットカードはただのプラスチックのおもちゃ同然)
現地イラン人に聞いたら、急激なインフレにより現地通貨リヤルの価値が急激に下がっており、銀行を通じてのリヤルの流通が間に合っていないそうだ。(お金はそんな急に刷れない。)
しかし路上に出ると、おっさんらから「リヤルが欲しけりゃそりゃやるぞ」と言わんばかりに両替に応じてくれる。彼らはむしろリヤルの信用価値が下がっているからこそ、外貨が欲しいのだ。それが皮肉にも価値の安定しているUSドルだったりする。しかも経済制裁下では通商による外貨獲得がしにくいし、国としての危険度が増せば観光客も減る。そうなればどんどん外貨は入ってこなくなり、イランの人々はますます外貨に群がり、その価値が高騰する。そしてリヤルの価値が相対的にまた下がる。
※(写真7)バザールで見つけた金属加工のおじさん。「俺の作品を見ていってくれ!」と言われ見学。結局何も買わなかったが「両替はいいか?」と言われ、ちょうど持ち金(リヤル)がなかったので少しいいレートで両替してくれた。
ローカルマーケットはもちろんのこと、町のスーパーなどでも普通に外貨(USドルやユーロ)で買い物ができたりする。本来、国としては好ましくない状況なのだろうが、国民生活にとって、背に腹は代えられない。
これもイラン人に直接聞いた話だが、給料がリヤルで出たら、すぐに外貨や「金(ゴールド)」に換えるのだそうだ。でないと、今月の現金1万リヤルの価値が来月には半減している、なんてこともあるそうだ。そして手元に残った外貨やゴールドを“タンス預金”するのが、一番確実な資産みたいなことを言っていた。だからバザールに行くとゴールド屋がいっぱいある。「ゴールドばっかり売っててはぶりいいな」と思ったらどうやらそうではなさそう。信じる物は自国通貨よりゴールド。「アクセサリーがいやなら金歯にするといいぞ!」ともアドバイスされた。
昨年でもこんな状況だったのだから、今現在はもっと厳しくなっていることが予想される。僕がいた頃は、こうした外貨の奪い合いでちょうど国内がギクシャクしてきているような時期だった。これが俗にいう「国内情勢の不満」というべきもののひとつなのだろう。これがニュースには出てこない、生身のお金感・生活感。
このガス抜きをどこでするのか?それがまた大人(国家)の政治判断となるのだろう。
■僕の予想は当たってしまった
僕はギリギリのところで生き延びる能力が高い(要は運がいい)ようで、名言は避けるが、僕が現地を離れた次の日に災害やテロが起きたニュースを見聞きする時がある。それでもなぜか僕はいつもゴキブリのように無事なのだが、危険と隣り合わせとはまさにこういうことなんだなと。これは日本にいてもそうだろう。暴走する車もいるし、醜い殺傷事件だって起こる。虐待、過労死だってこの国には平然と起きている。豊かさとは、だ。
※(写真8)外務省 海外安全ホームページ 海外安全情報(2019年)
※(写真9)外務省 海外安全ホームページ 海外安全情報(2020年)
外務省の発表する安全情報では、昨年のイランはレベル1(十分注意して下さい)だったのが、一気にレベル3(渡航中止勧告)に危険度が引き上げられてしまった。
ちなみに僕は基本的にこの情報をあまり信じていない。だって、パリやロンドンでテロが起きてもそこはオレンジ色にはならない。きっと相手国が日本人観光客が減ることを懸念し、自分の国に色を付けないように日本の外務省に圧力をかけているのだろう。もしくは日本国外務省が忖度して、そういった大国には色をつけないか。大人とはそういうものだし、信用ならないし、結局は自分の身は自分で守るしかない。
僕はイランで買ってきたペルシャ絨毯(小さいサイズだが)の上で現在の情勢を見守っている。万が一、戦争が始まれば僕のペルシャ絨毯の価値も高騰するだろう。僕は自分が気に入って買った絨毯なので手放す気はないが、こうして意図的に戦争を起こして“儲ける”人種が世界には確実にいることも忘れてはならない。それはきっと武器屋だけに留まらない。
最後に、僕はこれからもイラ人職人達が黙々と絨毯を作り続けられる世界を切に願っている。その姿は神々しいまでにただただ美しかったから。
(写真10)