僕のねこ、夏 #2 不思議な隣人…1…

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 ある日、中年の男が話しかけてきた。

 夏と同居して三か月程が経ち、木枯らしが町から色を奪いはじめた、ある早朝のできごとである。

 男は、名を飯塚という。
 僕の家のすぐ右に、豪奢な一軒家を構える隣人である。

 それまで会話らしい会話など一度も交わしたことはないけれど、散歩の際に家々の表札を眺める変な癖をもつ僕は、近所の家の形とその家主の苗字をあらかた覚えていた。

 中でも飯塚は、顔と名前と家の形が一致する数少ないご近所さんであった。というのも、夏に飯をやる朝方、買い置きしてある猫用の缶詰がきれていることに気づいた僕が慌てて外に飛び出したとき、たいてい遭遇するのが、この隣人なのである。

 彼はいつも、若者が着るようなてらてらとした、動くたびにしゃりしゃりと音を立てる黒色のジャージに身を包んでいた。首だか顎だかわからない、頭と胴体の境目あたりに白いタオルを巻きつけて、くたびれた運動靴をはいていた。それなのに、手首にはめた金色の腕時計をやたらびかびかさせているのだから変なセンスの男である。

 それからいつも犬を二匹連れていた。足の短いずんぐり体型の犬である。たしか、コーギーとかいう犬種だった。

 飯塚とその奥方が、この二匹のずんぐり犬を我が子のように可愛がっているのは知っていたから、毎度違うおそろいの服を着させられているのを見ても幼子を愛でる感覚なのだろうと思うだけでとくに驚きもしなかった。

 ただ、以前に一度、みつばちの服を着させられていたときには、思わず声をあげそうになったほどに驚いた。わざわざ犬にみつばちの格好をさせるとは恐れ入る。夫婦そろって変なセンスの持ち主らしい。

 それもあって、僕はこれまで、飯塚と積極的に関わろうとはしなかった。

 しかしこの日、飯塚は、五千円札を握りしめて玄関から飛びだした僕を、「おはよう、やあ、おはよう」と挨拶がてらに呼び止めた。低くてもよく通る声であったから足を止めざるを得なかった。

 丸い顔ににっこりと浮かんだ笑顔に、僕はひどく警戒した。

「君、猫を飼いはじめたのか」
「はい?」
「いや、家内がね、君のうちから猫が出ていくのを見たって言うもんだから」
「はあ。いえ、というより、住みついただけです」
「住みついたって、猫がかね」
「そうです。野良を連れ帰ったら、そのまま住みついてしまっただけです」
「ほお、そりゃあおもしろい」

 飯塚は、豪快に突き出たふくよかな腹を揺すって笑いだした。なにがおもしろいのか、僕にはわからなかった。

「エサでもやったのか」
「やりましたが、その前に雨宿りをさせました。そしたら、飯をくれって頭をたたくものだから」
「そうかそうか、おもしろい」

 飯塚は揺れる腹に手を当てて、また笑った。

 いったいどうしておもしろいのか、僕にはさっぱりである。ますますこの飯塚という男を苦手に思った。考えていた以上に変な男だ、読めない男だ、その腹の内側になにを隠しているのかわからない男だ、と。

 その矢先のことである。

「前から思っていたんだが、君は不思議な男だな」
「はあ、そうですか。よく言われます」

 そう返しはしたものの、正直、不愉快だった。僕が変だのなんだのと、このへんてこな隣人にだけは言われたくなかった。

「気を悪くしたかな」
「べつに。急ぎますので」

 つっけんどんな声が出たが、僕は気にもしなかった。
 義理程度に頭を下げ、さっさとこの男から離れようとしたのだが、ここでふと、不愉快な気分を解消しようという思惑がはたらいた。僕は踏み出したばかりの足を止めた。

「あなたも、ずいぶん不思議な男ですよ」
「そうかね」

 予想に反して、飯塚は陽気な笑い声を上げた。僕はますます不愉快になった。今度は会釈のひとつもせずに飯塚に背を向け、どかどかと、大股で、近所のコンビニに向かった。そして、ぐしゃぐしゃになった五千円札で、猫用の缶詰を買い占めた。

 これでしばらくあの変な隣人と顔を合わせることもないだろうと考えていたのだが、おそろしいことに、飯塚はその日の夜、なにくわぬ顔で僕の家にやってきた。

「今朝はすまなかった。失礼なことを言ったようだ」

 玄関先に立った飯塚は酒くさかった。顔もほんのり赤かった。あの黒色のジャージではなく、薄灰色の上等そうなスーツを身に着けていた。

 けれどもこれが彼らしいというべきか、ネクタイは首から離れてだらんとぶら下がっているし、シャツの襟元もひらいているし、そこから白い肌着がのぞいているしで、なんともだらしのない格好である。

 ただ、手首の金時計だけは、相変わらずびかびかといやな光を放っていた。

 飯塚は、両手に袋をぶら下げていた。その中身は焼き鳥のつまった包みと焼酎の大瓶であった。それを得意げに示してから、

「一緒に晩酌でもどうかね」

 と誘われたので、僕は、

「結構です」

 と即座に断った。

 飯塚は引かなかった。まあまあそう言わずにと笑って、晩酌でも晩酌でもとひたすら繰り返してくるので、僕は三回断ったあとに、仕方なく飯塚を家に上げた。

 僕のねこ、夏にとっては、これが初めての来客だった。

 いつのまにか廊下に出てきていた夏は、僕のすこし後ろで置物みたいになっていた。四つ足で立ったまま、来客用のスリッパに肉付きの良すぎる足を押し込む飯塚のことをじっと見つめていた。

 僕は、ふたりの間で何度か首をめぐらせた。いったい彼らがどんな反応を見せあうものかと興味をもったからであるが、僕が飯塚から夏へと目を戻したとき、置物の夏は、廊下の奥へ駆ける後ろ姿に変わっていた。

 僕はもう一度、飯塚を見た。
 彼は腹を揺すって、今朝よりも大きな声で笑った。

 飯塚を居間へ通して台所に立った僕は、まずコップを用意した。客と自分の食器をかならず分けることにしている僕は、普段使っているものをひとつと、戸棚の奥から真新しいものをひとつ引っぱり出した。

 これは以前、義理で出席したいとこの結婚式で引き出物として手に入れた代物である。
 ガラス製のそれは、とっくりの上半分をちょん切ったみたいにずん胴で、全体に海色のうず巻きがあしらわれていた。小洒落たデザインだからあの飯塚のお気に召すことだろうし、僕も覚えやすいと思ってそれにした。

 次に、僕は冷蔵庫をのぞきこんだ。そもそも料理もしない、腹がふくれればなんでもいいと考えている僕の冷蔵庫の中には、気の利いたものなどなにひとつ入っていない。

 いや、本当は、去年の暮に叔父から送られてきたうまい熟成ハムが残っていたのだけれど、そんなことなどすっかり忘れたふりをして冷蔵庫を閉めた。

 このとき僕は、そのとっておきのブロックハムを、飯塚に丸ごとかじられるシーンを想像したのである。あんまり長居をされたくないのもあって知らん顔をしたわけだ。

 そうして至極簡単に晩酌とやらの準備を整えた僕は、用意したふたつのコップを持って、ついでに戸棚に放りこんであった開封したばかりのせんべいの大袋を指にはさんで、飯塚の待つ居間へ戻った。

 飯塚は、こたつの前でしゃがんでいた。廊下と居間を仕切る襖に大きな体を向けて、ちちち、と舌を鳴らし、指を揺らしていた。

 見ると、少しだけ開けておいた襖の向こうに夏の姿があった。夏は隙間から、遠巻きに客人を眺めていた。首を傾けて、動く指をじいっと見つめていた。

「名前はなんていうんだい」
「夏です」
「なつ、おいで、なつ」

 また、ちちち、と舌を鳴らした。

 夏が僕を見た。

 僕は、飯塚のまるまるとした後ろ姿に目を移した。ぱつぱつの上着や尻のあたりでぴんと張ったつやのある生地に、はじけ飛ぶ寸前の水風船を思いだした。

 すこしの間それは続いたが、夏は結局、居間に足を踏み入れようとはしなかった。

 飯塚は残念そうにしながらも夏とのふれあいをすんなり諦めて、早々にこたつに足を突っ込んでいた僕の正面にどかりと腰を下ろした。

 ちなみにこの間《かん》の僕は、そんなふたりを眺めていただけである。水風船みたいな男と、ちんまりと座りこんで首を傾げる僕のねこの対峙を、ただただ興味深く眺めていただけである。

 そうしてようやく、飯塚ご所望の晩酌なるものが始まった。


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