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ガンダムSEED FREEDOMを見てもんにょりした僕には経験値が足りてない

 26日、『ガンダムSEED FREEDOM』を見てきた。

 見終えてすぐ、これは賛否両論な作品だぞと思った。僕の中には爽快感ともんにょり感という二つの感情が折り重なってしこっていた。こうした感想を誰かと共有できないものかとネットで検索したら、絶賛の声が圧倒的に多かった。確かに、あの作品に大きな良さもあるのは事実だけれど、これほどまでに絶賛されるものだろうか。もんにょりとしたものを感じた人たちは口をつぐんでしまったのだろうか。それとも、僕がただ少数派というだけなのだろうか。

 この作品を楽しんだ人たちのnoteを読んでいく内に気づいたことは、彼らと僕の違いはどうやらこの作品の「見方」を知っていたか知らなかったかの違いであるようだ。それを知った上で、このもんにょりとした感想を見つめておくことにも意味があると感じたので、こうして記事に残しておく。

 そうならないように努力はするものの、この作品を100%楽しんだ人には不快な表現も入るかもしれない。その辺はどうかお気をつけて。


 色々な感想を読みながら感じたことは、この作品は一見お祭り的なものに思えるが、どうやら本質は防御力の高さにあるらしいということだ。あるいはファンを楽しませることに比重を置いていた、と言い換えても良い。ファンの批判にアンサーを用意する、という点を「FREEDOM」は作品の第一目標に掲げていたのではないかと思う。

「ガンダムSEED」の続編にあたる「DESTINY」は主役陣の途中交代を挟んだことで、作品としてのまとまり、中でもメインキャラクターの人間的描写が不足していたことはよく指摘されている問題だ。「ガンダムSEED」が好き、とは言えても、「DESTINY」が好き、とはなんとなく言いにくいような空気を、僕たちの世代のオタクは感じていた。そうしたファンの不満、20年間で蓄積された関係値を清算することをこの作品は選んだ。

 あまりにも聖人君子過ぎたキラには弱さを、何を考えているか分からなかったラクスにはその内面や迷いの描写を、ウジウジと悩んでいたアスランは悩まない男になるとともにネットのオモチャとなった彼を映画でもオモチャに。そして活躍の少なさと歪められた性格、不遇な立場を嘆かれたシンとデスティーガンダムには、彼本来の少年性や純真さを描きつつ、クライマックスでは画面の向こうから「これでもか」という声が何度も聞こえてくるような縦横無尽の活劇シーンが用意されていた。この20年間、彼の活躍の場は主にスーパロボット大戦ガンダム無双、あるいは漫画 作品だったこともきっと無関係ではあるまい。もしかすると、監督や演出家からそうした作品や作者へのお礼だったのかもしれない、と思うと少しくるものさえ感じる。

 僕も少年当時はキラ・ヤマトとストライクフリーダムが好きだったが、今ではシン・アスカとデスティニーガンダムが好きな一般オタクのうちの1人だ。だからデスティニーの戦闘シーンはさすがに笑ってしまったし、あれがあったことで何か、シンは救われたなと思う。なるほどデュランダルは彼の扱いやすさ、いずれ敵対することもあり得るフリーダムへの恨みとは別に、その深い闇と狂戦士の資質から、アコードが増長したときの抑止力としても、超特効を持つシンを選んだのかな、などと考察をして楽しんだりもした。傷の舐め合いと揶揄されたルナとシンの関係に描写が加えられたのもまぁ良かった。

 そういう「救われた」という感情や画面を越えた考察を、作品のファンであればあるほど、好きなキャラが多ければ多いほど味わうことができたのかもしれない。ただ、映画には2時間から3時間という時間的な縛りもあるし、製作期間も無限じゃない。防御力を高めた結果、犠牲になるものはあって、むしろ制作陣もそこで開き直っているなとすら感じた。


 「SEED」→「DESTINY」→「FREEDOM」という関係に、僕は「初代」→「Z」→「逆襲のシャア」という流れを期待していた。人は分かりあうことができるのかというテーマを、人間は地球さえも汚染するが人の心の光はあたたかいという言葉に寄せながらも、アムロとシャアは最後まで分かりあうことはなかった(あるいはほんの少しアムロがシャアを理解した)というシーンで終えたあの映画には美しさがある。

 では争いの終わらない世界を舞台にしたSEEDで、強大な力を持った主人公と起動兵器が武力で戦争を終わらせるために(あるいは武力を用いずに)何かを為せるのか、答えは見つけられるのかという期待を持って、僕は「FREEDOM」を見に行った。しかしそうしたテーマは冒頭15分くらいで早々に取っ払われて、あとにはデスティニープランを改めて否定するという、ここでも、デュランダル議長は正しいのではないかとファンから投げられた疑問にアンサーを出すという、防御に重きの置かれたストーリーテリングが為されていて、おまけにそこに至るまでの脚本も正直劣悪というか手抜きだった。公開されてまだ間もないので詳細を述べるのは控えるけれど、見るに堪えないシーンも結構あった。

 俺が作りたいのもお前が見たいのもこれじゃないだろ? 敵を作って、あとはドンパチやるだけだ。という固い決意を感じてしまったし、実際にメカニックのシーンは超高水準だったからこそ、僕はもんにょりしていた。僕はガンダムSEEDのフィナーレを期待して見に行ったのだけど、そこにあったのは現にファンから言われているように、あの頃のオタクに向けたファンサービスであり、「同窓会」だった。

 ラクスはあんなに「ですわ」という人だっただろうか。SEEDの戦闘シーンにギャグ描写と力技はそぐわないんじゃないだろうか。シナリオでキャラクターが、「えっ(感嘆符)」と反応することで強引に話を進める部分が多すぎないか。悪役があまりにも悪役過ぎて、彼らに正しさが感じられなかったのはどうなのか。キラの人間性を描くのは良いとして、ちょっと矮小化しすぎじゃないか。想いだけでも、力だけでもダメなはずなのに、結論はあれで良いんだろうか。この作品は本当にガンダムSEEDなんだろうか。

 エンドロールで何かよさげなことをあの人が言っているのを聞き流しながら、確かに爽快感を得ながらも一方で、これでガンダムSEEDは終わっていいのかという疑問が僕の中には渦巻いていた。なるほど確かにアレ(兵器じゃない方)で運命に立ち向かっていくことができる、という一定の答えは示された。人は必要で生まれるわけではない、に続く言葉も確かに単体で見ればよかった。でもちょっと、ありきたりすぎないか。彼らが死んだあとはどうするんだ? 詰んでいる、とすら言われるこの世界に何か希望は見つかったのか? 納得がいかない気持ちで他の人の感想を探したが、そこには絶賛の嵐があった。


 そうした疑問とともにnoteを読み漁っていて気付いたことがある。どうもこの作品を見る前に見るべき作品が2つあったようだ。その2つとは、福田己津央監督の「DESTINY」後の作品である『クロス・アンジュ』と、サンライズのテレビシリーズから年月が経ってからの映画化という共通点を持つ『コードギアス 復活のルルーシュ』だ。良い意味で開き直った「アンジュ」と、同じく同窓会的な作りを持った「復活」を踏まえたファンの視点は達観していて、「FREEDOM」を楽しむ準備がしっかりとできていたようだ。読者の方々はもうお分かりのように、僕はどちらの作品も見ていない。

 僕が期待していたのは『機動戦艦ナデシコ』で~、などと語るのはあまりにも害悪オタク過ぎるなと思ったので控えるけれど、ネタバレを気にせず読んでくれた視聴前のオタクには、この作品を楽しむ上では必要な経緯を踏むべきであるようだと、僕から報告させてほしい。ちなみにコードギアスのTVシリーズは僕も見ていた。だからあの新キャラはとても良かった。僕の経験値がもう少し足りていさえいれば、この作品を100%味わうこともできたのだろう。リソースをシナリオよりも人間描写と戦闘描写に振った制作事情にも、社会に出た大人であれば理解を示すことができたのだろう。社会に出てない子どもな僕が贅沢を言って良いのなら、視聴前のオタクにもう1つだけ助言させてくれ。
超級! 機動武闘伝Gガンダム』も、おそらく読んでった方が良い。

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