ピン差しを恐れていた私
最近思い立って、MTGアリーナをダウンロードして遊んでいる。
古典の勉強のつもりだった。
遠い昔の工具箱にぎっしりと詰め込んだ遊戯王を除けば、シャドウバースからカードゲームを始めた私にはMTGに対する憧れのようなものがあった。
美麗なカードイラストに、複雑で神秘的な物語を備えた、アドバンテージのひとつひとつを奪い合う荘厳なゲーム。
やたらとカードゲームに詳しそうなおじさんたちもMTGを愛している。俺もカードゲームとはなんたるかの深奥に、いつか足を踏み入れたい。
そんな私も構築ではフェアリーやダニの性悪デッキどもに絡まれて不快な思いをしたので、現在はドラフトプレイヤーに移りつつある。MTGが荘厳で神秘的な紳士たちのゲームだという認識はすでに改まっているのだが(どんなところでもオタクはオタクだ)、しかし得られるものはあった。
ひとつは土地システムを後続のゲームたちが模倣していないのはもっともだという理解であり、そしてもう一つは、私は今までデッキを構築する上で、ピン差しを恐れていたのだという認識だ。
シャドウバース出身の私は構成するカードのほとんどを上限まで差した、いわゆるきれいなデッキを好んでいた。その性質はレジェンド・オブ・ルーンテラ等の他のゲームにも及んでいたのだが、MTGではどうしても資産が足りないために、強いカードたちはピン差しや2枚差しが基本になる。
しかしどうだろうか。デッキは普通に回っている。LORでもピン差しを多めに採用したデッキを試しに使ってみた。こちらも上手に回っていた。
つまり、私のピン差し恐怖症はどうやら思い過ごしの強迫観念であって、それはシャドウバースという特異な環境で培われたものらしい。
思うにシャドウバースの特異な点は、特定ターンXまでにゲームが終了するようにカードが刷られていることである。初期の頃の《次元の超越》、《リノセウス》から今に至るまで、タイムリミットの用意されたカードゲーム。Xが短縮されることはあれど、その方針に変わりはない。
それからもう一つ、ゲームがサイゲームス製だというのもある。シャドバも多くのサイゲのゲームと同じように、対話性を極端に抑えて、上振れの点数を各々別個で競い合うようなゲームシステムとなっている。良し悪しの話ではなく、おそらくソシャゲの手軽さを重視した上、意識的にそうしている。
そんなゲームに必要なのは再現度であり、「上振れた理想の動き」を再現するために、構築するカードは種類を絞り、それぞれを上限にまで加えるのは当然な戦術だ。でもそれはすべてのカードゲームに通じる定石じゃない。
MTGやLORはシャドバよりもゆったりとしたテンポの流れるゲームであり、それから対戦相手の意表を突く対話性を多少なりとも備えており、彼らはピン差しを許容した。デッキの中のカード全てが4枚あるいは3枚積まれなくても良いということは、構築に無限が広がったということだ。
僕は今、結構な解放感の中にある。
めちゃくちゃにきたないデッキを作っては、きゃっきゃと喜び遊んでいる。
また少しずつカードゲームの記事を投稿していくことになると思う。ゲームレビューも続けていきたいけれど、他に優れている人たちが大勢いるし。
学校で、人から何も評価されないものこそブルーオーシャンであると訓戒を受けた。
偏屈者の強がりではあると感じつつ、人間、歴史あるものに学ぶことも時には大切かもしれない。