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割れ物が割れ、憑き物が取れた気分になった話。
もう昨年の話になるが、2週間ほど前のある朝、長く家にあったデミタスカップを割った。
サイズがちょうど良いからと歯磨き用のコップとして使っていたものを、起き抜けのおぼつかない手で洗面台に落としてしまったのだ。
パキィ!!と耳につき刺さるような音を立てて、カップは洗面台の中で無数の破片となった。
その瞬間はもちろん驚き、「しまった」と思った。
が、次の瞬間には、
(ああ、土に還ったんだな)
と、かなり悟りじみた心境でその事実を受け入れていた。
寝起きで頭が焦ることを忘れていたのかもしれない。
その後も淡々と片付けを行い、ものの5分程度で何事もなかったかのようにその場は収まった。
そして、思った。
(割れるのって、意外と怖くないんだな。)
長く家にあるものというのは、それだけで何となく親しみが沸くものである。
このデミタスカップもそうした類のもので、約10年前、エスプレッソを飲む習慣もないのに見た目とサイズの可愛さが気に入って購入したものだった。以来、たまーに使うこともあったものの、ほぼインテリアと化しており、以来自室の風景の中にあるのが当たり前のものだった。
当たり前にそこにあったものがなくなるということ。
失うものによって程度の差はあれど、それはそれなりに痛みが伴うことだと思っていた。が、必ずしもそうとは限らないらしい。
少なくとも、割れ物については今の私はある程度落ち着いて受け止められるようである。
私は陶器がわりと好きだ。
知識などは全くないが、街中でそれらしいお店を見かけるとつい立ち寄ってしまう程度には関心がある。
が、実際に購入に至ることは滅多になく、家で日常的に使う食器はメラミンなど、落としても割れる心配のない材質のものばかり選んでいた。それくらい「割れるのが怖い」ということが念頭にあった。
この「怖い」には破片が散らばったら危ないという物理的な恐怖ももちろんあるが、それ以上に、愛着を持ったものを失う恐怖の意味合いが大きかった。例えていうなら「犬は好きだけど死んだら悲しいので飼うことはしない」という感じだろうか。
自分の人生を振り返ってみると、割れ物以外でもそういう傾向があった気がする。
失ったり傷ついたりすることを恐れて、最初からしない・持たないという選択をすることが度々あったように思う。
何がきっかけでそれが変わったのかはわからない。
ただ、30を過ぎたあたりから、あらゆるものへの執着が減った気はする。
10代・20代という絶対的な若さを失ったことで、却ってそれらを失う怖さから解放された感覚が、今回の一件に通ずるものがあるように思う。ガラスの10代とはよく言ったものである。
昨年、30半ばで小型二輪の免許を取得し、バイクに乗れるようになった。
それまではエンジンのついた乗り物などまともに運転した経験がなく、バイクなんて事故る気しかしない、自分には絶対無理だと思っていた。
それが今は日々の通勤と買い物の足として、既に約2000kmを共にしている。これは、日本列島でいうと北海道の知床岬から鹿児島の種子島宇宙センター間の距離に相当するらしい。
もちろん事故への恐怖は常にあるが、できなかったことができるようになり、自分の世界が広がる感覚こそが、生きる楽しさであり人生の醍醐味ではないかと思う。
どんなに大切にしたところで人はいつか必ず死ぬし、すべてのものとは別れが来る。
だから、どうせなら失うまでのその時間を楽しみ、愛おしめる方を選んでいきたい。
新年の誓いというほど大層なものではないが、2025年はそんな風に生きていきたいと思う。