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小説『犬も歩けば時代を超える』(8話目)

8話 犬千代、お母様の身代わりに

私犬千代は、前世の戦国時代で武功を焦り、お母様の制止も聞かずに戦に出て討ち死にした。
少なくとも人を切り殺したのだから、花の咲く死の世界へは行けず、かといって生き残ったお母様が心配で涙ながらに地獄さえ行けない。
そこを、仏様と閻魔大王に次の世を約束してもらうと救われたのです。
しかも、お母様が生まれ変わる同じ世に生まれ変わらせてもらえるという温情。
ありがたいことだと思っている。

ただ一点、私が人間に言葉が通じない「犬」として生まれ変わったこと以外は。


新しく買ってもらった私の部屋である扉付のゲージ。
昼間はそこでゆっくりお留守番をすることになった。
お母様や他の家族は、学校や職場に行ってしまう。帰ってくるのはもう日も暮れてからだ。
この時代の人間はなんて忙しいのだろうか。
戦国の世のように水汲みなどもなく、竈の火をおこすことも要らない。ほとんどが「電気」というもので家庭の家事が回っている。
よく見ていると、下働きの者がよくやっていた洗濯も、現代では手を濡らすことなくできるらしい。
でも、お母様は忙しい。
そんな中でもお母様は私を散歩に連れて行き、身体をくまなく拭いてくれ、

「ゼットのお手手は可愛いお手手、ゼットの足は可愛いあんよ。」

と、現代の私の名であるゼットという名で呼びかけながら、歌うように話しかけてくれる。とても(元)犬嫌いとは思えない。
そんな素振りは少しも見られない。

ある日お母様はお父様にこう言った。

「私、ゼットが他人のように思えないのよ。なんだか、私の赤ちゃんが戻ってきてくれた感じがするの。」

私はお母様に抱っこされながら、一筋の光を見た気がした。

「あ?それは気のせいだよ。それ、犬だよ。」
と家族は言う。

「でもね、こうして抱っこをすると、お兄ちゃん(現代のお母様の息子である)が生まれて初めて腕に抱いた時を思い出すの。あの時の感動がよみがえって、まるで赤ちゃんが帰ってきたような気がするの。」
お母様は熱心に話している。

「ゼットはきっと、遠い遠いところから、私を探してきてくれたのよ!そんな気がしてならないの!」

お母様は私を少しは感じてきてくれたのだ。
何百年も前から、お母様に会いたくて、親不孝を謝りたくて今私はここにいる。
おそらくお母様に戦国時代の記憶はないから、あの時のやりとりなど分からないだろう。
でも、私が遠いところから会いにきたのだということを、感じとってくれるだけで、もうそれだけで充分だ。

 お母様が一人感極まっていると、

「うん、そうだね。そうかもしれない。もしかして前世では本当の親子だったりね。」
と、お父様も気の利いた言葉を言ってくれて、犬の目にも涙というところだった。


そんなある夜、いつものようにお母様の腕枕で眠っていると、私はお母様の異変に気がついた。
私は寒空の中この家にやってきてから、ずっとお母様の腕枕で寝ているが、そのお母様が寝汗がびっしょりで唸っている。
苦しそうで、吐きそうなのか口元を押さえている。

「お母様?」

私はお母様の頬を舐めてみた。
私の母犬は、私の具合がちょっと悪いと舐めて治そうとしてくれたものだ。
でも、今はそんなものでは治らないような感じがする。

「お母様、お母様!」

呼んでも分からないくらい苦しそうだ。
丸まって苦痛をこらえている。
そういえば、戦国時代のお母様も丈夫な性質ではなかった。
現代のお母様も丈夫ではないのに、毎日忙しそうで、なぜ休養をもっと取って長生きをできるようにしないのかと思ってしまう。

「苦しい、苦しい・・。」

私の手は犬の手で、手ぬぐいを冷やして絞って汗をぬぐってやることも出来ない。
ましてや薬を持ってきて飲ませて差し上げることもできない。
お母様は私を息子だと思ってくださってくれているのに、なぜ私はお母様に何もできないのだろう?

「まずい、明日会社休めないのに、苦しい。」

お母様、具合悪すぎて会社どころではないと思うのだが?
と言いたかったが、お母様は仕事熱心で、わりと楽しそうに会社に行くので、きっと遣り甲斐があるものなのだろう。
人間は使命感や遣り甲斐が必要な場合が多いと、現代に来て感じている。
私は祈った。お母様のために全身全霊で祈った。

「お母様を救ってください。そのためには、私が身代わりになります。」

すると、真っ暗な部屋の中に、光を背負った人が現れた。なんだか会ったことがあるようだが、思い出せない。

「犬千代、お前は母親を救いたいのかい。自分を身代わりにしてでも。」
美しい、鈴を鳴らすような声でその光は言った。

「はい。お母様を明日の朝元気に会社に行かせてあげられるなら、私はこの身を身代わりに差し出します。」
私がこう言うと、
「本当だね。後悔はしないね。」
と光は念を押した。

確かにここで命を落としては残念なことになってしまうから、それは勘弁してほしいが、ここでお母様を助けられない我が身など情けないではないか。

「では、お前を身代わりにしよう。頑張りなさい、犬千代。」

聞き覚えのある声の光は私に言って消えた。
私は一晩中お母様を舐め続けた。


朝になった。お母様が私の横で目を覚ますのが分かった。

「あれ?苦しくない。痛くも無い。あれは夢だったの?すごく気分もいい。」

お母様は不思議そうに顔や身体をさすってみている。
良かった。お母様は無事なのだ。元気なのだ。
あの光の人は、私との約束を守ってくれたのだ。

「ゼット?どうしたのゼット?」

お母様が私を振り向いた。
私は布団の上で胃液を吐いていた。
生まれて初めて体験するような、ひどい倦怠感と苦痛と吐き気だった。
お母様は夜中にこんな思いをしていたのだ。

「大丈夫?ゼット?ゼット?」

慌てふためくお母様。
でもお母様、そんなことをしていると、会社に遅刻してしまいますよ。
いつも朝、バタバタと忙しいのではないですか。
私はお母様の手をペロッと舐めた。

「大丈夫。会社に行ってください。」
そういうつもりだった。

でも、お母様には届かず、私を抱きしめてお父様のところへ行くと、
「大変!ゼットが具合悪いの。吐いちゃってとまらない!」
と騒いでいる。

そのうち、私のお腹から音がして、吐くだけでなく下痢も始まった。
「病院、病院に電話を!」
お母様は私が生まれて予防接種をした病院の電話番号を調べると、イライラしながら、

「早く出て、早く電話に出て頂戴。」
と祈るように受話器を握りしめている。

電話が繋がったようだ。
会話をするとすぐに受話器を置いて、お母様は私をバスタオルに包むと、部屋着のまま外に飛び出して走り出した。
確かに動物病院は家から近かったのだが、転びそうな勢いで走るものだから、その方が怖いくらいだった。

「ゼット、しっかりしてね!」

お母様の早い心臓の音を、私は朦朧としながらきいていた。


動物病院で、私は大嫌いな注射を一本打たれた。
家への帰路は、お母様が私をいつくしむように抱いて、そっと歩いてくれて、

「夜中にとても私は苦しかったのだけど、朝になったら平気になっていたの。
でもその代わりお前がこんな状態に。まさかとは思うけど、私の身代わりになってくれたの?」
と言った。私はそう言われてドキッとして身を硬くした。

「きっとそうだね。ありがとう。本当にありがとう。
ゼットは私の養子だと家族は言うけど、違うわね。あなたは私の本当の子供よ。
人間の子供と同様に、あなたのことも命がけで愛しているわ。
でも、もう私の身代わりになどならなくていいのよ。」

朦朧とした意識の中で、お母様の言葉が私の耳に響く。
今、体調はひどい状態だが、気持ちはとても幸せだ。
犬の形で生まれ変わって、親子の名乗りもあげられず、前世の謝罪もできないが、私を我が子と呼んでくれた。
こんなに幸せなことはない。

家に戻ると私はケージにそっと寝かされて、数日は安静だった。
お母様はこの日結局仕事を休み、ずっと私のそばにいてくれた。

(9話へ続く)

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