【年齢のうた】KAN●夢を追いかけていた頃、「23歳」
先週はチバユウスケの献花の会に行ってきました。
感じることが多々あった日でした。
そして、今日はビリー・ジョエルの東京ドームの日です。
青木は観に行きます。
思い出しましたわ……高校時代、音楽の授業の一貫で、とあるバンドの助っ人ヴォーカルとして自分が唄ったことを(選択の教科で、僕は音楽でなく美術の授業を選んでたので、あくまで助っ人)。そのバンドは「ストレンジャー」と「アップタウン・ガール」をやっていたので、この2曲を演奏したんですね。どうにか盛り上がったはずですけど。
なおこれ以後、シンガーとしてのわたくしは、カラオケの場以外に出現しておりませんな。
自分が通った高校については、この回でちょっと触れました。東京ヤクルトスワローズに指名された高野選手の件で。今頃、自主トレ、やってるでしょうねー。
こんなふうにビリー・ジョエルを聴いてると、いろいろ思い出します。あの頃の自分はどうしてたっけ? 何を考えながら聴いてたんだろ? みたいな。
僕は音楽業界のはじのほうで仕事をしているわけですが、その仕事関係の中にはお歳を召しても「新しい音楽こそ、最前線こそ重要!」「昔のことには興味がない」とか「懐かしいとかどうでもいい!」という方もいるんですね。で、自分は新旧どっちの音楽にも関心があります。
昔よく聴いた音楽については「懐かしいな」という感じより、その当時の自分を探るというか、好きだった理由を確認することにそれなりの意味があると考えています。当時の自分の趣向性とか、考えとかをね。
ビリー・ジョエルは、僕はさっきの高校の頃から好きで聴いていて、87年に大阪城ホールで初めてライヴを観ました。翌88年には東京ドームのイベントで2回目を観たんですが、今日のライヴはそれ以来の観覧となります。
それで、何で36年間も彼のコンサートに行かなかったのかも考えました(そもそも今回は16年ぶりの来日ですが)。80年代後半からの自分は、洋楽だとインディ系のロックをよく聴くようになったからですね。それもあってビリーの作品にそこまでのめり込めなくなったし、しかも彼はこの数年後にポップ・アルバムを出さなくなったわけです(とはいえ90年代の終わりにベン・フォールズ・ファイヴが出てきた時は、ビリーにも通じるピアノ・ロックのカッコ良さを感じて好きになり、彼らにインタビューをしたこともあるぐらいでしたが)。
なので、ビリー・ジョエルを今回ほど聴き返しているのもひさしぶりです。そんな中で自分は「アレンタウン」がこんなに好きだったのかと発見し、ビックリしました。もう42年前の曲ですが、MVもすごくいい。この曲はライヴで演奏するはず。かみしめて聴かねば。
日本ではやはりバラード歌手としての彼が人気で、僕もそこは好きなんですが、それ以上にメロディアス&アップテンポのロック・ナンバーを書ける才能に惹かれています。
そして今回はKANについて書きます。
先日からSNSを見ていると、KANのファンらしきみなさんがたくさん投稿していますね。今回のビリーのライヴをKANが天国から観に来てるんじゃないか、たぶん東京ドームにいるよと言う人たちとか。ビリーにKANのことを知ってほしいと言う人とかがね。
で、僕も最近誰かとKANの話をしたなぁと思ったら、その相手はサエキけんぞうさんでした。前にも書いたけど、僕は獨協大学で行われている彼の講義に毎年ゲスト講師として招いてもらっていて、そこで学生たちの前でお話をしているんです。サエキさんとの付き合いは、かれこれ25年ぐらいになります。
下記はたまたまですが、その講義後にサエキさんが「愛は勝つ」のシングルを持っている年のもの。
で、サエキさんのパール兄弟は、KANが「愛は勝つ」の大ヒットを飛ばした当時、同じレーベルに所属していたんですね。まだCD時代の初期の頃で、あの曲のヒットが呼んだ喧騒がどれだけすさまじかったかを、昨年、サエキさんにちょっと聞いたのでした。
ふたりでその話をしたのも、去年のこの講義の前にKANが亡くなったからでした。そう、彼はこの前の11月に逝去してしまったのです。
僕はKANにはとくに近いわけではなく、彼に関する仕事をしたこともありません。生の姿を見たのは一度だけで、それも10年ぐらい前に行われた日比谷野音でのイベントのこと。出演者のひとりだった秦基博のゲストとして、KANが出てきたんですね。たしかサルの着ぐるみを着てその場を楽しませようとしたり、数曲の演目の中にちゃんと「愛は勝つ」を組み込んでいたりで、サービス精神のある人だなという印象を受けたものでした。
KANはビリー・ジョエルをはじめとする洋楽から大きな影響を受けたアーティストでした。そのビリーのコンサートの日なので、今日はKANについて書こうと思った次第です。
23歳当時のKANはまだまだ青春していた!
KANが年齢ソングを出しているのを僕が知ったのは、少し前のことである。その歌は「23歳」という。同名アルバムのリリースが2020年の11月なので、もう3年以上前になる。
聴いてもらえばわかる通り、彼が23歳だった頃の自分を回想している曲である。
このアルバムと曲について、KAN自身は次のインタビューでこう語っている。
――特に、今回のアルバムはこういう感じのものを、という構想もなかったんですか?
「曲のことは個別に考えているので、全体のコンセプトがあってそれに向けて曲を作っていくことはないですね。コレも今回に限らずですけど、曲が完成した順に外に出していくだけというか(笑)。それぞれの曲をいい形で完成させつつ、できるだけ違うタイプの曲を作ってアルバムに入れるということは常に考えていますね」
――KANさんの23歳の頃、みたいなものが通底するテーマとしてあったわけではなく。
「もちろん曲の構成とかアレンジとかっていうのは、僕は結構頭で考えて組み立てるタイプですけども、もともとの(曲の)初期発想というのは、どうやって出てきたかはわからないところがあるんです。『23歳』という曲も“23歳のぼくは大学の5年生”という歌い出しをなんとなく思いついて、そこからさてどうしようかと考えて作っていった曲ですけど、なぜそのフレーズが出てきたのかは自分でもわからない。で、自分の23歳はどうだったかと思い出しながら作っていくうちに、なんとなくタイトル曲にしたいなと思うようになっていった感じです」
このように、とくに23歳の自分を語りたい!という意志があって書いたわけではなさそうだ。唄い出しをなんとなく思いついて、ということならば、メロディにくっついて出てきた歌詞のフレーズを発端にしながら作ったのだろう。そう、58歳当時の彼が。
そして歌では、23歳の頃の自分が真剣に向かっていた音楽、恋愛、それにバイトのことなどが唄われている。
──今作の表題曲「23歳」はご自身の実体験がもとになっているという話ですが、まずはKANさんが23歳だった頃、どんなふうに過ごされていたのか聞かせてください。当時、KANさんは大学5年生だったんですよね?
はい。1985年、僕は23歳で大学5年生でした。というのも、当時僕が通っていた法政大学はまだ学生運動の名残があって、いわゆるロックアウトというやつが行われてたんです。校舎が鉄板で閉鎖されて誰も出入りできないようになっていて、そういう運動をしている人たちが常に校門の前にいて。そのせいでテストはなくなったんですけど、その代わりとしてレポートの課題が鉄板に貼り出されて、各自レポートを郵送して単位を取るという仕組みだったんです。で、その頃僕はバイトとバンドばかりしていて、大学にもほとんど行かず友達も少なかった。でもその中に1人、すごく頼れる人がいて。彼は僕がやっていたアマチュアバンドの歌詞も書いてくれてたんですが、さらにレポート課題をどう書けば単位がもらえるか、全部僕に教えてくれたんです。でも唯一、僕が取っていたフランス語だけ彼にとっては専門外で……それで僕はフランス語の単位を落として留年しました(笑)。
──KANさんは大学生の頃からフランス語を勉強されていたんですね。
第2外国語で履修してました。でも、そのときはフランス語って素敵だなと思ったから取っていただけですよ(笑)。
法政大学! たしかにあそこはキャンパスに学生運動の匂いが残っていたところだった。なにせ構内にゲバ文字の看板や貼り紙があったのだから。
80年代後半に上京した僕は、あの大学の学館ホールで企画される幾多のライヴを観たものだ。それこそインディ・ロックであったり、オールナイトイベントだったりで……FOOLSとか、町田町蔵(現・町田康)とか、不失者とか、北海道時代のブラッドサースティ・ブッチャーズとか、ジョン・ゾーンとか。それも1000円のカンパで入場できるようなものばかりで、私学とは言え、学びの場でよくあんな大胆な企画をできたものだと思う。KANはその法大に通っていたのだ。
彼の入学はそれよりもっと前の80年代前半なので、学生運動の名残はいっそう濃かった頃だと思う。そしてフランス語の履修もしていたと。
そうだ。後年のKANがフランス人になろうとしていた話を聞いて、ビックリしたことも思い出した。
──音楽の聴き方は当時と今とでは変わりましたか?
変わったと思います。23歳のときはパブのマスターから不要になったレコードをもらったり、ディスコでDJに教えてもらった曲を貸しレコード屋で探して、自分でカセットに落として聴いたりしてました。レコード1枚を買うのも大変だったから、入手した曲はとにかく聴き込んだし、そういうものが今も自分の中に強く刻み込まれています。
──具体的には、その頃はどんなアーティストを聴かれていたんですか?
やっぱりThe Beatles、ビリー・ジョエル、スティービー・ワンダーはたくさん聴きましたね。あとディスコやパブで知ったハワード・ジョーンズ、Duran Duran、Culture Club、Wham!、ABCあたりはアルバム最低1、2枚聴きました。ああ、The Style Councilも特によく聴いたかな。ライブも観に行ったんですよ。あとは80年代に日本でヒットしたアーティストの作品は必ず聴いていたと思います。
自分の業務的に、このアーティスト名の表記にはナタリーにどういう基準があるのかが気になりつつ(個人名はカタカナ、バンド名は英字?)……それはともかく、当時の洋楽シーンが思い起こされる話である。
23歳の頃のKANは、自分の夢を、もがきながらも必死に追いかける若者だったのだ。
それにしても「23歳」という曲は秀逸である。歌の途中から、今の23歳である「君」が登場してきて、35年もの年齢差について描写していくところがとても興味深い。ただの回想で終わらせない、一筋縄ではいかないあたりに、ソングライターとしてのKANの個性、面白みを感じる。
それ以前の青春を唄った「青春国道202」
KANについて詳しくない自分だが、ではこうした青春時代を唄った曲がほかにもないだろうかと調べてみたら、「青春国道202」に行き当たった。『野球選手が夢だった。』に収録されている曲である。そう、「愛は勝つ」が1曲目を飾る、通算5枚目のアルバムだ。
歌の中に出てくる「202」は彼の出身地である福岡の、最後に出てくる「246」は東京と神奈川を結ぶ、どちらも国道の数字である。
この曲については、本人が以下の番組で触れている。
国道202号で、「高校時代の青春が繰り広げられた」とのことだ。
ただ、「青春国道202」は58歳時点で書いた「23歳」と違い、まだ若かった頃の彼が、もっと若かった自分を思い出している歌である。
いずれにしても、若い頃のKANが、やはり一生懸命の日々を送っていたことがうかがえる。そしてそんな自身の過去をこうしてポップソングに昇華させてしまうところに、高いアーティスト性を感じる。
思うことが、いくつかある。
難病を抱えていたKANが亡くなったのは去年の秋のことで、61歳での逝去だった。その時は、亡くなった事実もだが、ずっと青年のような顔立ちのままだった彼が還暦を超えていたのも驚きであった。そして作品の中に何らかのユーモアや別の意味を入れ込むようなセンスの持ち主だったことも特筆すべきだし、先ほどのフランス人になりたかったとかの話も込みで、一般的なイメージ以上の何かを内包したアーティストだったと思う。
見方を変えれば……それだけに、異常にわかりやすくストレートな「愛は勝つ」ばかりがクローズアップされるキャリアを歩むことになったのは、やや難しい、厳しいところもあったのではと想像する。そのイメージが押し付けられることが多かっただろうから(なお、ここで「1曲もヒットがないアーティストに比べれば幸運に決まってるだろ」という批判はなしで。そんなこと、百も承知の上で書いてるから)。
もっとも、彼がそれに対してネガティヴなことを言っていたような記憶はない。それどころか毎回のステージでしっかりとあの曲を唄っていたことが、この人らしさの一端を表しているようにも思う。
日本の音楽シーンには、KANという、ちょっと変わった、しかし才能豊かなアーティストがいた。
彼が敬愛したビリー・ジョエルの16年ぶりの日本公演の日に、この事実を記しておくこと。それが僕のような人間ができる、このアーティストへのせめてもの行為である。
KANさん、どうか安らかに。
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