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【年齢のうた】神聖かまってちゃん その2 ●22才、26才、33才。の子が唄い続ける「夏休み」のリアル

前回の最後にお見せした点天の餃子、焼きました~。

カリッと、おいしく焼けたんですけども。しかし箱の裏にある作り方には「餃子を15個、間隔を空けて並べます。」と書いてあるんだよな。僕はいつも30個全部をぎっしり敷いて焼くんですよ。最初に作った時にこうしたらうまくできた気がしたので。妻子にも好評でな。

いつも「焼餃子」を作っているのです

添付のタレとラー油がピリッとした味わいで、好きですね。カミさんはポン酢で食べるのを好んでますが。
点天は3年前、THE YELLOW MONKEYを京セラドームまで観に行った際に、551とかカールなどの大阪みやげのひとつとして買って帰ったんです。それでおいしくて、点天また食べたいなぁと思って調べてみたら、わりと近くで売ってたんですね。なんと東京でも製造していたと。浪花の味なのに!

ではでは、神聖かまってちゃんの2回目です。

せつなさ、やるせなさがにじむ、かまってちゃんの「夏休み」ソング


「23才の夏休み」について書いた前回だったが、実はこの曲以降、かまってちゃんは夏休みをタイトルに掲げた曲をリリースしていった。順を追ってフォローしていく。

まずアルバム『8月32日へ』(2011年8月リリース)には、「22才の夏休み」という曲が入っている。同作には「23才の夏休み」の新バージョンも収録されているが、「22才の~」を聴くと、「23才の~」を連想させる特徴的なピアノのフレーズが鳴っている。意識的に一貫性を持たせているのだろう。

さらにこの歌には、これまた「23才の~」と同じく、思い出のキラカードが登場。そして学生時代のイメージや変われない自分自身などが描写されている。アップテンポの中に、せつなさが浮かび上がってくる曲だ。

もっとも、オリジナルの順番としては、「22才の~」のほうが先に書かれていたのかもしれない。の子が自分の年齢通り、素直に作っていたとしたら、だ。
と、憶測で書くのは……このへんの楽曲は、の子が出来上がったばかりの自分の作品をアップロードしていた個人サイト「子供ノノ聖域」でも発表されていたはずだが、これが近年、閉鎖されてしまったのである。そこに置かれた楽曲の量はかなりのボリュームで、の子の創作の現在とそれまでの足跡を見るのに有効だったのだが、もはやチェックすることができなくなった。ちょっと残念である。

で、このアルバム『8月32日へ』には、さらに隠しトラックで「26才の夏休み」を収録。本作のリリース時、の子はまさに26歳だった。

「26才の~」のスタジオバージョンのほうは、「23才の~」のメロディをあえて咀嚼していて、ムード的にはちょっとネオアコっぽい。僕なんかは、初期のザ・スミスを思い起こすほどである(賛同してくれる人は少なそうだが)。

歌詞では、ジャスコがイオンになったことに始まり、千葉ニュータウン、北総線など、やはりの子のリアルな日常を唄っている。こちらの感情は、せつなさより、やるせなさのほうを強く感じる。
しかもこの2011年、の子が26歳の頃は、音楽シーンでかまってちゃんへの注目度が高まっていた時期で、そこで書いたのであれば、もっと楽観的というか、明るい歌になっても良さそうなものだ。「ようやくいい感じになってきたかも」とか「これから先が楽しみだ」みたいに。しかしこの歌の晴れきらない感情は、こちらの心にもいくばくかの影を残す。きっと当時の彼の偽りのない気持ちなのだと思う。

で、こうして見ると、アルバム『8月32日へ』には、タイトルからしても、テーマに「夏休み」的なものがあったことがわかる。もちろん、の子独特の世界でのそれが。

そしてこの7年後には、アルバム『ツン×デレ』(2018年)の中で「33才の夏休み」を発表。またあのピアノのフレーズが響き、曲調はいっそうセンシティヴになっている。

暗号通貨のモナコインや同世代のバンドが解散するニュースが歌詞に織り込まれるなど、ここでもその時期のストレートな思いが綴られている。バンドとして実績を積み、キャリアを重ねたというのに心に抱えた不安を唄うこの歌は、しかしとても美しい。これこそ33歳になったかまってちゃんの切実さだ。ちなみにメンバーは全員が1985年生まれの同学年である。

日本のポップ・ミュージックで唄われ続ける「夏休み」と神聖かまってちゃんの「夏休み」


ところで、日本のポップ・ミュージックには、夏、あるいは夏休みを唄った曲がたくさん存在する。おそらくそれらは、この暑い季節が生み出す高揚感や、そこでの友達との思い出、あるいは恋愛といった、主に青春を舞台にした場面において強いエモーションをかき立てるモチーフなのだろう。いいことも、そうでないことも。


の子は夏が大好きで、昔からかまってちゃんの曲には夏が舞台になっている曲が多い。とはいえ、彼の場合はみんなで楽しく盛り上がった思い出ではなく、もっと内省的で、パーソナルな感情のほうが濃い。それらは自分自身に立ち返り、どこか頼りない生き方を確かめているかのようだ。

とにもかくにも、23才に始まり、22才、26才、33才と続いたこの「夏休み」シリーズは、時を置きながら作られた連作の趣がある。で、再度付け加えておくと、もし現在、の子の創作ファイル的な「子供ノノ聖域」が存在していて、それを確認できるならば、これ以外の年齢の「夏休み」を唄った曲がほかにある可能性も考えられる。

さて。かまってちゃんには、年齢に言及した曲が、ほかにもある。

2012年リリースのアルバム『楽しいね』収録の「花ちゃんはリスかっ!」では、19歳になる「君」を描写。


2016年のミニアルバム『夏.インストール』内の「たんぽぽ」では、45歳という表現があって……でもこれはちょっと設定がファンタジックか。

それから2010年の『みんな死ね』には、年齢を意識した「いくつになったら」という曲がある。


また、の子はツイキャスをよくやっているのだが、そのタイトルに年齢を入れることが多いのだ。「37歳独身男性の配信」のように。

こうして年齢を掲げる彼の姿勢は、ひとつには「現在の自分はこうなんだぜ」というリアルさを見せようという思いがあると思う。自分なりの考え方や生き方も、真剣な思いも情けない姿も、そこでウソをつかず、ありのままをさらけ出すこと。そこに毒やユーモアもあったりするのだが、それはかまってちゃんというバンドのあり方とリンクしている。

そして、もうひとつ。これは完全に僕の見方だが……の子のこうした年齢への意識の背景には、「つまらない大人になんか絶対になるもんか」という意志がずっとあるからではないかと思う。きっとそれは彼が若い頃から存在するもので、23歳の時も、26歳になっても、33歳でも、そして37歳の今でも、それを貫いているのではないだろうか。その気持ちは、たとえばさっき紹介した「いくつになっても」の歌詞でも確認できる。

そしてそこには「つまらない大人になるくらいだったら、子供のままでいいよ!」という心情があるような気がしてならない。
この、大人になることを拒み、子供のままでいたいと頑なであること。これは、の子のような生き方をしている人間にとっては非常に大きな命題なのだと思う。
その一端は、今回何度か触れた彼の個人サイトが「子供ノノ聖域」という名前だったことからもわかるだろう。
僕個人は、この10年ほど……つまり音楽シーンから認知されて以降のかまってちゃんは、この二極の間でせめぎ合う姿こそ刺激的に感じて見てきた。そしてこのバンドは、そこでひたすらあがき、戦い続けている。

で、以下のことは、かまってちゃんから、ちょっと広がった話になる。

どうしても自分の年齢というものを、意識してしまうこと。
その裏にある、大人になっていくということ。いつまでも子供のままではいられないということ。この狭間で揺れ動く感情。
それにまつわる音楽、歌。表現。

こうしたテーマについては、いずれまた、ここかどこかで、書こうと思っている。


それでは最後に、神聖かまってちゃんの新曲「魔女狩り」を。ラッパーのGOMESSに提供した曲のセルフカバーで、両者が激しい化学反応を起こしている。


新曲をさらにもう1曲。
「このバトンを海に思いっきり投げて」。

生きること、生き続けていくことについて、ふと考えてしまう。


点天は、浪花の味やねん

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青木 優
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