耳を澄ましすぎても…
耳を澄ましすぎる癖のあるわたしですが、その耳を使っても苦戦することももちろんあります。
大学に入って初めて、板書をしない先生の講義を受けました。
書かないからか(?)とにかく先生はべらべら話をし続けます。
それなのに、きちんとノート取れよ!と言うのです。
くぅ…!
今思えば、みんなは重要なところだけをメモしていたのかもしれないけれど、わたしは一言一句逃さずに書こうと必死でした。
言っていることは伝わってくるけれど(聞く)→それを頭の中で文字にして(変換)→ノートに書く(手を使って文字にする)
このことがわたしにはとても難しく、尋常でなく苦痛だということをその時初めて知りました。
でも、わたしの努力が足らんのや!とがんばりました。
その講義の次の時間は、休養にあてました。
その講義に限らず、90分の講義を2連続で受けると頭から湯気が出そうなくらい疲れて、休養が必要でした。
そんなことをしているので、なかなか単位が取れず、留年です。
みんなはすごいなあ…と落ち込む日々でした。
小説を読むことは大好きです。
でも新聞を読もうとすると、たくさんの文字が一気に"バッ!!!!"と目に入ってきて、わーーー!!となります。
そのくせ"バッ!!!!"で得た情報で、なんとなく書いてあることはわかります。(理解とは別)
ドラマや映画は、字幕があるほうがありがたいです。
ピアノの楽譜もまた大変でした。
ピアノは大好きでしたが、楽譜をよむことが苦手でした。
難しい曲になればなるほど、線が多くて音符が見当たらず(あるけど!)いちいち下から何番目にあるのかと数えたものです。
そして、3拍の中に音が4つ、などというのがどうにも理解できませんでした。
先生に、一度弾いてもらえば、ああ!なるほどね!となります。
ズルです(笑)
CDを貸してもらえたら、もうこっちのものです(笑)
ただ、ソルフェージュはそうはいきませんでした。今弾いたメロディーを楽譜に書いて、というのは、いつもほとんど手を付けられませんでした。
でももし、今弾いたメロディーを弾いてみて、と言われたらまあまあ出来た気もします。
こうやって書いていたら、今なら色々とわかることばかりです。
診断はされていませんし、いまいち当てはまらないところもありますが、ディスレクシアっぽいのかな?と思ったりもします。
でも当時はやっぱりまだまだ情報不足で、頭の悪い子、要領の悪い子、努力や忍耐が足りない子、なんか変わった子…でした。
もっといろいろな対処法があったと思うと悔しいし、自分のことながら、大変だったねえ、と労ってあげたくなります。
いろいろなことがうまくいかなくなって(特に勉強がつらかった…)中学校に足が向かなくなった頃、父に「学校に通えない意味がわからない。おまえのことはわからないし、わかりたいとも思わない。」と言われたことは、召されるまで忘れられない衝撃的な言葉でした。
そしてその場にいた母が、父になにも言ってくれなかったこともショックでした。
当時のわたしには確かに、自分の気持ちや考えをわかってほしいという、若い、厚かましい気持ちがありました。
でも今は違います。
わからなくてもいいんです。
ただ、わからないことでも知ろうとしてくれるかどうかが重要だったのだと思います。
その場にいる人がその人に対して"なにを言っても意味がないから"と諦めることもまた、本人にとっては大きな傷になります。
わかりたくもない、と言う人にはなんも言えねぇ〜けれど、誰かには言っても意味がないことでも、思いを行動に移す(本人の前で口に出す)か移さないかは、とても重要なことだとわたしは思います。
いろんな病気、症状、障害…その人の苦痛や苦悩まですべてをわかることは難しいです。
わたしにとっては、夫婦や子育て、学校やママ友などの悩みも、想像することしかできません。
でも、わからないからといって知ることをやめないこと、聞く耳を持ち続けること。
わたしはそのことを心に留めて生きています。
今でも、英会話やカメラなど、勉強したいことはたくさんありますが、始めては挫折することを繰り返しています…
でもやっぱり諦めたくないです。
好きなことはなんとか身につけたいと、気持ちだけがボコボコ溢れています。
勉強法は、まだまだ模索中です。