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「気がすんだ、と思いたい気持ち」

「気がすんだ」と、思いたい日がある。
もやもやしたことがあった、体の調子がいまいちなとき、仕事でしっぱいしたり、なにかに悩んだとき。
私はだいたい「気がすんでない」(文字に起こすと結構感じが悪いな(笑))
そんな時は、あたたかいお風呂にゆっくりと入るか、はやく寝るに限る。これはたぶん、みんな知ってる。そのほかに私が気づいたらしていることがある。

私は、料理をする。

はじめて台所で料理をしたのは5歳のころだったと思う。大根の葉っぱをじゃこと甘辛く...いや、甘く炒めたものだった。私はもれなくそれを家族全員に食べさせた。みんな「おいしいね」と言って食べてくれたので、私は料理をすきになった。

中学生のころ、友人との関係性がうまくいかなくなったとき、冷蔵庫にある野菜を片っ端から切り刻んで、鍋に入れ、水、コンソメを入れてそれが沸くのをずっと見ていた。私は、玉ねぎを切りながら何度も泣いたし、手には包丁の持ち方が悪いのかたこができた。でも、すり減らした気持ちを成仏させるには必要だった。料理をすることは、確かに私を救った。できたスープは甘くてやさしかった。

それから料理は、私が「気がすんだ」と思える行為のひとつになった。この「気がすんだ」という乱暴な言葉は、ゆっくりほどいていくと「納得した」ということなのかなと最近気づいた。野菜を刻みながら、『ああ、私は納得したかったんだ』と思ったら、それこそ腹落ちしたのだ。食材を切り、時には炒め、煮て、料理にする。そして、食べる。その一連の流れが自分にとって納得できるものだから、私は料理をするんだ。

そう思うと、安心して生きていける気がした。

#エッセイ #料理

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