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香水『Chanel N°5』を26歳男性が初体験してみたレポ
産まれてこの方、香水というものに縁がなかった。
当たり前といえば当たり前である。男性として今まで生きてきて、なおかつファッション性というものに縁のない人生を送っていれば香水に興味関心を持つ持たないにかかわらず、そもそも縁がない。
むしろ迷惑のほうが多かった。世の中、安物の香水ほど気にくわないものはない。特にチャラい兄ちゃん姉ちゃんがエレベーターの隣に立った時など地獄そのもので、全身から漂う非自然由来の酸味を伴った香りは化学兵器に相当する。
だが私はある日、趣味で書いている小説の描写に、香水を使いたいと思ってしまった。ふと思い立った以外の何物でもないのだが、私はぜひこれを実践しようと思った。だが肝心の香水を真面目に嗅いだことがない。雑に会社やSNSで話したところ、パートで勤めている方がシャネルの香水をお持ちとのことで、翌日持ってきてくれることになった。
持ってきてくれる香水は、シャネルの5番である。正式名称をChanel N°5と書く。シャネルの5番といえば香水の中でも特に有名で、これさえつけておけば間違いないというものらしい。この液体はこれまで、シャネルの名とともに世の中の女性たちを魅了した。かの世界的大女優、マリリン・モンローが愛用し、とある逸話とともに有名にしたことでも知られている。
私はこのことをパートの方に教えてもらった。内容はこうだ。ある日、マリリン・モンローは記者に、
―寝るときは、何を着けているのですか。
と聞かれたらしい。記者の仕事のうちとはいえ随分とまあ下世話な質問である。そもそも直球の質問かどうか怪しく、夜に"身に着けているもの"……つまり男のことを言外に尋ねていたのかもしれない。
ただ、そこは世界をまたにかける稀代の大女優。彼女は記者の質問に臆することなく、
―私が身に着けるのは、シャネルの5番を数滴だけ。
と答えた。高嶺の花と形容するにはあまりに気高く、憧れるにもあまりに遠い言葉である。マリリン・モンローのこの発言は大きく記事に取り上げられ、既に売れていたシャネルの5番は世界的にその地位を盤石なものとしたのである。
そんなシャネルの5番を、嗅がせてくれるのだと言う。香水を嗅ぎたいと気軽に口にした結果、随分なものが来ることになってしまった。
だが問題がある。
こっちは庶民なのである。
まず高い。Amazonで検索すると100mlで2万円くらいで売っていた。つまりこの液体は1mlで200円もするのである。仰天した私は今まで触れた最も高価な液体を振り返ってみたが、確か東京のバーで飲んだ白州の20年がロックで2000円ぐらいだったはずである。ウイスキーのロックは30mlが基準だから、1ml当たり約66円となる。シャネルの5番はざっと白州20年の3倍といったところだ。こんなものを何百mlも買った日にゃ私の●日分の給料がぶっ飛ぶ。こんなことを考えている時点でマリリンの足元にも及ばない……いや、比較対象にすること自体が万死に値する蛮行となるに違いない。
だいたい、マリリン・モンローなど白黒映像でしか見たことがない。教養の一貫として西洋の名作映画はある程度修めたが、あくまで観ただけで本体の薄汚さは一切変わっていない。汚泥に清水をかけたところで全てが汚泥となるのみである。この前もオタク向け新作ゲームのキャラに劣情を催し、SNSで「結婚しよう」と発言して友人の皆様を不快な気分にさせたところである。
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それに、おおよそ思い起こす限り最近私が嗅いだ香りは昼食の納豆(3パック85円)である。ナットウキナーゼ由来の何とも言えない湿度を伴った臭みが私の食欲を刺激した。
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極東の小市民たる私の目の前にマリリン・モンローと納豆を並べた際、どう考えても落ち着きという点で勝るのは納豆であることに疑いようはないのである。
……さて、香水は次の日に会社に持ってきてくれることになったのだが、ここまで考えた私の心は既に萎え始めていた。例え香りを体験したとて、それを正しく表現する文化的資本を私自身が持ち合わせていない。香水という存在はあまりにハイソである。納豆で我慢するのが庶民に許された精々の権利だ。
そんな私の絶望をヨソに、シャネルの5番はアッサリと来た。「はいどうぞ」というパートさんの声とともに、中に数万円の液体が詰まっているとは思えないほど雑に机の上に瓶が置かれた。
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この小瓶の中にマリリン・モンローが詰まっているのである。
最初に思ったことは、予想よりも遥かに香りが落ち着いていたことである。気にならない。そのまま気にしなければ日常の中に溶け込んで気づかないほどである。ただ香りを嗅ごうとして意識を向ければ、しっかりとした香水独特の雰囲気を楽しむことができる。
シャネルの5番は、シャネル社の創業者であるファッションデザイナーのココ・シャネル氏が調香師に依頼して作られたものである。この香水が生み出されたのは1921年のことだから、もう100年を超えたロングセラーになる。100年ともなると、5番が絶対的な地位を確保している天下の名香と言い切っても全く誤りではない。
自然由来のものを使用しているせいか、不快感といったものは一切ない。柔らかい、おそらく植物由来の香りの中にも凛とした軸のようなものもある。……明らかに上品なのだが、どことなく挑発的ですらある。
首筋に付けた後でも、空気の揺らぎのせいか香りを楽しめない瞬間が確かに存在している。そのため掴みどころがない。蠱惑という言葉が出てきたのは事前にマリリンの逸話を知っていたからか、はたまたシャネル社が持つ実力か……きっと双方なのだろう。
後で調べてみると、シャネル5番の販売サイトには「妖艶でありながら清潔感のある」とか、「清潔感がありながら艶やかな」といった文言が並んでいた。一見、というより明らかに矛盾し、共に維持することが不可能であるような文字の両立が、この香りの中には含まれている。
内心に驚愕を隠す私に、パートの方は香水の付け方を教えてくれた。手首と首に付けるといいらしい。香りが取れづらく、なおかつ動脈という急所がある部分である。言われた通りにすると、近いところからよりはっきりと香りがするようになった。だが香りに濃淡があるのは変わっていない。確かにそこにあるはずなのに掴みどころがない、という特性は維持されたままになっている。
危険である。
こんなものを気になる女の子が身に纏っていたら一発でオちる。
優しさがあり、それでいて凛としてなおかつ掴みどころのない。これを手に入れたいというのは蝶を素手で掴もうとするものである。だが男という生物は異性に対して独占欲を持つというのはある程度共通している。無駄だと分かりつつも無様に大空に向かって手をばたつかせ、半ば諦めたころにふわりと香る。被虐心すら想起させられる。私が考えても容易に想像できるのだから、現実にこのようなことは普通に存在しているに違いない。
古人曰く、恋愛は追うより追わせることのほうが重要である。なればこの香水が持つ掴みどころのないという特性はまさにそれをするに相応しく、あまりに強力な武器となる。世の男性諸君は予めこの香りを頭に叩き込んでおいたほうが良い。元を知らなければ悪女にアッと言う間に転がされるに違いない。
これが、たった2万円で、100ml分も買えるのである。あまりにも安すぎる。
世の中は広い。こんな恐ろしいものが当たり前に売られていることを私はこれまで知らなかった。結局、遊びでつけたシャネルの5番は夜風呂に入るまで私の手首と首筋から外れることはなかった。私は、この矛盾が両立された香りが私自身から発せられているということを認めざるを得ず、その香りの余りの強烈さに内心を揺さぶられた。これを全身に纏って正気を保っていられるとは、使用者はどれほど心が強いのだろうか。
こうして26の若造はまた一歩、無知を知って少しだけ大人になったのである。