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大分県の怪談『恐怖!爆乳妖怪・チチドッコイショ』
大分県南部は津久見市、豊後水道の水資源に恵まれたこの地に、保戸島という名の有人島がある。この島は明治中頃より始まったマグロ漁により栄えたという歴史を持つ。昭和の全盛期は三千の人口、数百のマグロ漁船を有しており、太平洋狭しと縦横無尽の活躍を遂げた。
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しかしクロマグロの漁獲規制や過疎化に押され、今あるマグロ漁船はわずか数隻、人口は五百人ほどになっている。JR日豊本線の津久見駅を下車して少し歩いたところの港から出ている船に乗って25分。集落はかつてマグロ漁で財を成したことが一目でわかる、鉄筋コンクリート造の民家が立ち並ぶ。私はご縁があって、何度かこの島に仕事やプライベートで行った。
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ある時、誰かがこれを「東洋のナポリ」と呼んだ。定着したため、市発行の観光パンフレットなどにしばし採用されることがある。どうも極東で生きる我々は、「東洋の○○」とか「日本の○○」という例え方をするのが好きなようである(大体は西欧の地名が採用される)。
だが……これはあくまで私個人の感想なのだが……。
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この夕日を観てしまうと保戸島は、保戸島のまま、自律した状態で世界と勝負できるのではないかと思わざるを得ない。圧巻である。最近私は己の内心の隅を占有したままになっている一人の女性に大変困っているのだが、その方と並んで夕日を眺めたらどんなに良いだろうかなどという少女漫画じみたことを大真面目に考え出すほどである。
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惜しむらくはこの島に清少納言や松尾芭蕉と言った詩人たちの来た記録がないことだ。彼らを冥界から引っ張り出してきてこの夕日を見せたらどんな言葉を残すのだろうとか、そんなことを考える。それほどの景色だ。「西のナポリ、東の保戸島」くらいがいいのではないだろうか。
いきなり、話題が逸れた。今日の本題はこの島全体のことではないし、話もこんなにロマンチックなことじゃない、極めて俗なものである。集落から少し歩いた場所にカモンバイという名が与えられた岩があって、主役はここだ。
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と言っても、どこにでもありそうな岩だ。島と本土の中間に位置しており船の往来の障害となっていたから名がないと不便だったのだろう、もしこれが交通と関係のない場所にあったら名前など与えられなかったに違いない……そんな程度の岩である。
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ただこの岩には、ある妖怪が棲んでいるという伝承があるため民俗学的には取り上げるべき点がある。老婆の姿をした妖怪なのだが、人間を化かして遊ぶとかそういった可愛らしい類ではない。
老婆はびっくりするくらいの爆乳の持ち主である。そして岩を縄張りとしており人間が嫌いで、岩に近づいた者をその恐ろしく巨大な乳で以て圧死せしめるのだ。
その名もチチドッコイショ。保戸島の枠を飛び越え、大分県が日本に誇る爆乳妖怪である。
私は別件で保戸島と縁があるため、何人かの島の方と仲良くさせていただいている。こんな冗談のような妖怪がいたことを知った私が大笑いしたことは言うまでもない。ぜひ話を聞いてみたいと思ったので、たまたま飲み会で島民の中村さんと同席になった際、私はこの爆乳妖怪の話を振ってみることにした。中村さんはすぐに
「ああ知ってますよ、島では有名です」
といった。人を殺す妖怪の話を振ったのに中村さんは既に半笑いである。飲み会には他にも数名の参加者がいた。如何なる妖怪かと問われたので説明すると当然一同大爆笑である。ここまで人間に笑われる妖怪というのも中々珍しい。
「何か、エピソードのようなものはありませんか」
と私は聞いた。こうした民話には大体、その妖怪が登場するエピソードがあるものである。多分に漏れず爆乳妖怪の場合もストーリーがついていた。中村さんの話によると、元々チチドッコイショは大人しい妖怪で、人間に危害を与えることはなく岩の下にあった洞窟で大人しく暮らしていたらしい。
ところが、昭和になって岩近辺で護岸工事が行われ、洞窟も消滅することになってしまった。その結果、大人しかったチチドッコイショは怒り狂った。そして以後、岩を訪れる人間を見つけては爆乳で圧殺するようになってしまったのだという……ああ恐ろしい。人間の身勝手さを伝える道徳的要素も併せ持った素晴らしい民話だ。
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妖怪も人間も共存可能な持続可能社会(SDGs)の実現が急務である
以前、私はチチドッコイショの話を知らずにこの岩で釣りをしたことがある。老婆の慈悲か気まぐれか、数時間の滞在にも拘らず私は圧殺を免れた。
これだけ特異な妖怪になると、民俗学好きやオカルト好きの間では有名になるようだ。
「怪談を作ろうとして、妖怪ファンが来たこともあるんです」
と中村さんは言った。それも一度二度ではないらしい。チチドッコイショの怪談を作ろうという試みである。模範的民俗学者でもある妖怪ファンは、わざわざ船を使って本土から島を訪ね、島民に丁寧なヒヤリングをしていったとのことだ。しかしその悉くは「爆乳で以て人を圧死せしめる」という点がどうにもならず断念せざるを得なかった。いくら話の前後を稲川淳二の如く巧みに操ったとしても、肝心の部分が爆乳圧殺ではどうしようもない。ここだけどう頑張ってもドリフのコントとなり、怖く仕立てることができないのである。
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栄養価が少ないのだろう
また存在そのものが下ネタの妖怪なので、島においても島おこし等で本格的に活用しようとはならなかったようだ。うっかり大成功して、テレビでチチドッコイショが紹介されようものなら保戸島は怪奇・爆乳妖怪島ということになってしまう。また他の市町村では地元に伝わる天狗、河童の伝承を授業で伝えるという活動も珍しくないそうだが、チチドッコイショなんぞ扱った日にはPTAから苦情が殺到すること間違いなし、誰も反論できないこと請け合いである。
結局チチドッコイショは怪談にすることもできず、下手に行政関連で扱うわけにもいかず、島内と一部の妖怪好きに知られる存在に留まり、今日に至った。
それにしたって、どうしてこういう名前になってしまったのだろうか。
チチがドッコイショである。絶妙なセンスである。
ドッコイショ、という言葉の語源には諸説あるが、今日使われている掛け声のような用法で江戸期に既に存在していたと言っていいだろう。各所での音頭や、相撲取りが四股を踏むときの掛け声、そして古典落語に登場するからである。チチのほうに関してはいう間でもなく乳のことであり、こちらは「乳飲み子(チノミゴ)」といった具合にチが一つだったころも重ねると枕草子に登場するほど古い。
チチもドッコイショも、互いに古い単語だ。数十年前に口裂け女が流行ったときに全国各地で妖怪や都市伝説が大量生産された時代があったが、古風極まりないネーミングセンスのことを考えるとその頃産まれた話とも考えにくい。恐らくチチドッコイショは少なくとも大正期には存在していて、護岸工事で住処を潰され怒り狂ったという話は昭和の後付けだと思われる。
チチドッコイショについて文献を調べたが、どれも中村さんが話す以上のことは掲載されていなかった。本当は津久見市の図書館や県立図書館の司書に問い合わせたらいいのだろうが、どんな顔をして聞いたらいいのか分からない。万一女性の司書さんが応対して、
「チチドッコイショとは、どのような妖怪でしょうか」
と聞かれたら、
「爆乳で人を圧死させる老婆の妖怪にございます」
と説明せねばならない。末代までの恥である(調べてもチチドッコイショの詳しい情報がなかなか出てこないのは、このような執筆者ないし研究者のプライドが大きく影響しているものと思われる)。
……まあ、大正期までの保戸島において、チチドッコイショは確実に存在していたとは言い切ってもいいのではないだろうか。
話題としての存在ではない。本当にいたという意味での、「存在していた」である。
現代人はすっかり忘れてしまったが、かつての農村漁村は神や怪異とともに存在していた。天狗が空を飛びまわり、狐狸が人を騙すということは彼らにとって事実であった……当時の空気は柳田国男の『遠野物語』を読めば触れることができる。エンジン一つまともにない時代だ。いくら経験と伝統に基づく知識があったとしても島民にとって海は脅威そのもの、船底の板一枚破れた先は地獄なのである。
■柳田国男『遠野物語』青空文庫HPより
そのような時代の、集落の外れにある岩である。漁等の用事があってここを訪れた島民が波に呑まれそのまま帰ってこなくなったという例は、長い島の歴史のことを考えるとおそらくあっただろう。自分たちの生活に寄り添っているはずの海が命を飲み込む、その挾間の場所にある岩は、充分妖怪の根城とするに値しただろう。人々にとって海は今よりも暗く深く、山は今よりも鬱蒼としていた。
推測に過ぎないがチチドッコイショはそんな時代、島においては、「存在していただろう」。島民の海に対する畏敬の念から産まれた妖怪だったのかもしれない。
そういえばこの記事を書くにあたり、肝心なことを聞き忘れた。私は中村さんに電話で
「チチドッコイショを見た人はいるのですか」
と聞いた。中村さんの回答はシンプルだった。
「もちろん、誰もおりません」
そしてこう続けた。
「いてたまるもんですか、あんなバケモン」
島内が平和であることは間違いないようである。
【追記】
本記事の作成にあたって保戸島の中村さんに連絡をしたところ、なんとnoteで使うための資料写真を頂いたばかりでなく、幾人かの島民にチチドッコイショについて聞いてきていただいてしまった。この場を借りて最後に感謝を申し上げたい。