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答えは雪が知っている

 小学生の時分に一度だけ、親父と青春18きっぷを使って上越線で関東から北陸まで下ったことがある。幼少の私は電車好き、旅行好きなところがあって、日々の業務に疲れた親父が重い腰を起こして連れて行ってくれた。確か上越線で新潟に向かったあと北陸本線を経由して滋賀の米原に至った記憶がある。

 うちの親父は教育好きなところがあった。出立にあたり、川端康成の『雪国』を読まされた。途中で経由する越後湯沢のあたりが作品の舞台となっているからである。おそらく私が人生で初めて触れた男女関係を扱う物語が『雪国』だった。だが小学校低学年のお子様が内容を理解できるはずもない。なんだかよく分からないものを読まされたと思った。

 ただ一点、

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 という一文が有名であることを親父に聞かされて、私は強い疑いを持った。山一つ挟んだ向こう側が雪に覆われた地になっているなど、感覚的にあり得ない。かなり誇張を挟んだ文章なのではないかと私は親父に言った。

 親父は私の疑問には答えなかった。代わりに、

「じゃあ、確かめてみようか」

 と言った。旅行当日、私と親父を載せた上越線の鈍行列車は眼下に細くなっていく利根川を見据えながら徐々に北上していった。ご存じの通り、関東の冬は雪が少ない。空っ風と呼ばれる強い季節風が北から吹きすさび、フェーン現象に伴って晴天が多くなる。ちょうど「北風小僧の寒太郎」で北島三郎が歌ったような感じで、稲刈りが終わった後の田園を望みながら寒風に吹かれるというのは実に寂寞としているものである。

 上越線はそういった関東平野を出発して群馬の渋川、沼田といった山がちな地形に入っていくのだが、地形の起伏が激しくなっても前述したような平野の雰囲気を引き摺ったまま進んでいった。本来はそこそこ雪が降っているらしいのだが、その年は暖冬だったことも影響して幼少の自分には平野の延長にしか見えない。

 次第に標高が高くなってくると杉林の上のほうに雪がちらほらと見えてくるものの、とても雪国と呼ぶに値するようなものではない。やはり川端が書いたものは誇張だったのではないかという疑念がふつふつと湧き上がってくる。そもそも、曇天で降雪がないのである。

 やがて列車はそのまま三国山脈を1万3千メートルにわたって貫く新清水トンネルに入った。それまで茶色ばっていた山間の景色が真っ暗になり、時折非常灯の緑色が前から後ろへと駆け抜けていく。このトンネルは上越線が単線から複線とするにあたって昭和42年に新しく掘られたもので、昭和6年に開通した現在では上り線用に使われているものとは異なる。 つまり川端と全く同じ線路を辿っているわけではないのだが、一文が本当かを確かめるために考慮すべき誤差ではない。

 それまでの車窓はそこそこに楽しめたものの、真っ暗で変化がなくなってしまうと面白味がなくなる。トンネルを抜けるまでは数分に過ぎないが、私の体感では何分何十分にも感じられた。

 待ちくたびれ、そろそろ雪国のことを忘れそうになったときである。運転席ごしに半円の光が見え、それが徐々に大きくなっていった。トンネルに入ってからの初めての変化だった。列車はその光に向かって速度を上げて突っ込んでいった。

 ぱっと両窓が明るくなる。私は首を持ち上げて左右に振り、あたりがどうなっているのかを確かめた。

 それまで茶色ばかりだった窓の外が、すっかり白くなった。その白の中を列車が駆け抜け、駅に止まってドアが開くと雪の冷気が車内へ流れ込んできた。プラットフォームに並ぶわずかばかりの乗客は関東よりも一回り着ぶくれた格好をしており、寒そうに列車が来るのを心待ちにしていたのが分かった。遠くに見える山の中腹はスキー場のゲレンデを望むことができた。その何もかもが真っ白に染まっていた。

 国境の長いトンネルのその先は、確かに雪国であった。

 川端は湯沢温泉の旅館に長く滞在し、『雪国』を執筆した。現在湯沢は「越後湯沢」の名で関東に広く知られており、スキーシーズンになると数多くの観光客でにぎわう冬のリゾート地となっている。観光客のほとんどは関東から湯沢に行くには在来線を用いず、上越新幹線か関越自動車道を利用して訪れる。鈍行列車より早い高速道路や新幹線では三国山脈のトンネルも相対的に短くなり、景色が白くなる体験もやや薄れる。親父はこれを解って鈍行列車で確かめることを提案したのである。

 列車はその後いくつかの駅を経て、越後湯沢駅に到着した。川端はこの近くの温泉宿で、一人の芸者と知り合ったらしい。その女性が『雪国』に登場する駒子のモデルとなった。モデルの女性は川端と会ってしばらくしてから、芸者を引退して結婚し平成まで生きたらしい。

 作中で駒子と深い関係になる主人公の島村は、文筆家の端くれという紹介のされ方をされている。彼が自身と島村をどれだけ重ね合わせながら物語を紡いでいったのか、本人が亡くなって久しい今、私たちは想像することしかできない。ともかくも、川端は『雪国』を書いて世に送った。後年、彼が日本人初となるノーベル文学賞の受賞者となった際、この作品は受賞理由作の一つとして並べられている。

 駅で乗り換えがあったので列車を降りる。辺りには昭和期に建ったと思われる低層のビルが立ち並び、その全てが一様に雪を被って寒そうにしている。足早に階段を上って建物の中に入ると、スキーを宣伝するポスターがたくさん張られていた。

 川端のころには湯沢になかった要素である。だが川端が温泉郷で出会ったように、若い男女がゲレンデで中を深めている。辺り一面の銀世界というものは普段それを目にしない関東の人間にとって、それだけで感傷的にさせるに充分すぎるのだろう。普段なら踏み込めないところに踏み込むにはちょうどいい舞台だ。当時から雪が持つ力というのは変わっていないのかもしれない。

 無論、これらは後年知ったことで小学生当時の私が知る由もないことである。いずれにせよ、私にトンネルの退屈さと、その後の車窓に広がる白は今でも鮮明に思い出せるほどこびりついている。

 関東にいた私は紆余曲折あって九州に移住し、現在に至る。北陸は遠方となり、すっかり行き辛くなってしまった。最近越後湯沢のことをよく思い出す。今年の夏は長い。もう中秋の名月も過ぎたというのに、半袖で暮らしていても汗が噴き出てくる。全身に雪を被って涼みたい気分である。

 ただ重要な問題がある。冬に湯沢に行っても雪はあるが別に駒子はいないし、駒子に相当する人物も身の回りにいないのである。ゲレンデなどカップル客でごった返しているに違いなく、そんなところにスキーを趣味にしていない男独りが行ったところで虚しくなるに決まっている。

 ……というわけで、私が再び湯沢へ赴く日は遠い。雪景色の情景に恋焦がれ、雪景色に孤独を思う。片一方については自己責任ではないかという読者諸君のご指摘は無視させていただく。

 どれもこれも、全部雪のせいに違いない。

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