航空業界をのぞき見て旅が身近に〜【私は何者なのか】バイト編
勢いで、大学時代のアルバイト編、第3弾までいっちゃいます。
第1弾と第2弾は、こちら↓
時給がよかったから…
大学生活も慣れて1年生も終わりに近づいたころ、新たなバイトを探しはじめます。おなじみ『フロム・エー』で、気になる求人を見つけました。
・日本航空(国内線)の電話予約センター
・シフトは17:00〜21:00固定
・週3日からOK/学生可
・勤務地は渋谷駅ちか
・時給はたしか1,200円くらい(土日は50円アップだったような…)
うろ覚えですが。日本航空の子会社が運営する電話予約センターの直募集でした。学生ができるバイトとも思ってなく、それが渋谷にあるというのも驚きでした。雑居ビルの1フロアで、看板を大きく掲げていなかったのです。
大学の授業が終わってからでも間に合うし、条件はすべてクリア、なにより時給が格段に良かったのが決め手となって、さっそく応募することに。
当時は飛行機の予約などまったく馴染みがなく、そんな仕事があることすら想像できてませんでしたが、日本航空だけはよく知っていました。
そう、『スチュワーデス物語』ですね!夕方の再放送で何度も見てました。
このドラマの影響でスチュワーデスさん(キャビンアテンダント)の人気はめちゃくちゃ高かったですよね。わたしもJALに親近感は持ってたのです。
電話応対と予約システム
なんとか無事に採用が決定すると、数日間の決められた研修を受ける必要がありました。そりゃあそうです、知識ゼロの女子大生ですから。
研修はみっちり終日で、ちょうど学生の長期休みの時期にありました。同学年の学生もいて、ほかにも綺麗なお姉さんたちと、同期として一緒に研修を受けました。
研修の目的は、電話応対の基本と、予約システムをマスターすること。
要は、仕事ができるようになることですね。
電話応対のシミュレーションは、ほんとうに緊張しました。
「日本航空でございます」って第一声から、わたしが名乗っていいの?っていう違和感だし、声のトーンは明るく好印象が求められます。
教官(あえてそう呼ぶ)はもと客室乗務員の素敵な女性なので、そんな完ぺきなお手本にはほど遠いし、気恥ずかしいし。マニュアル通りにいかないことを、実地で学んだ経験でした。
逆に、航空便や旅行商品の予約のための専用システム(AXESS)を触るのは、楽しかったですね。
そのころはまだPC普及以前で、ブラウン管の黒い画面に、専用のキーボーという端末で、コードを打てば反応が帰ってくるという当たり前のことが、新鮮で面白かったのです。
予約記録はすべてアルファベットと数字のみで表現するのですが、いま思えば、あれだけで予約を管理できていたことに、感動を覚えます。
往復便の予約というだけのシンプルな予約記録の美しいこと!
電話を受けながら、そうした新規予約が完成するのは、ある種の達成感のようなものがありました。これは何フェチと言うのだろう?
旅行業界の常識
最初に苦労したのは、3コードと言われる全国の空港コードを覚えることでした。羽田が<HND>、成田が<NRT>あたりはまだ簡単なのですが、札幌<SPK>、大阪・伊丹<ITM>、沖縄<OKA>、新潟が<KIJ>、金沢・小松<KMQ>、鹿児島<KOJ>……一見脈絡ないのも。いまでも意外と覚えてるもので、驚きました。
そういえば、関西空港<KIX>が開港したのは1993年で、わたしが勤務中の一大イベントでした。時代を感じますね。
そんな感じで、JALが就航している空港はすべて覚える必要がありました。
電話で行き先を言われたら、即時に出てこないと話にならないので、あんちょこを作って手元に置いておくなど、みんな工夫していました。
社会の厳しさを知る
研修で覚えるべきことをみっちり詰め込まれると、OJTの期間がありました。OJTは昼間の時間帯なので、隣に付いてくれる先輩は超ベテラン(当時のわたしにとってはおばさん)で、それだけで緊張します。
日中にかかってくる電話は予約に慣れたビジネスマンが多く、早口だしせっかちだしで、もうてんてこ舞い……遅いとすぐに先輩に代わってもらう、というのを繰り返し、鍛えられていきました。
一人立ちデビューしても最初のうちは、離れた席で社員さんがモニターしていて、ずっと緊張しっぱなしです。そうして、なんの準備も心構えもないままに、いきなり社会に放り出されたのでした。
仕事なので当たり前なのですが、これまでのバイトとは明らかに違う責任感でした。ビジネス利用も多いですが、ふつうに家族旅行の予約を電話でとっていた時代です。お盆や年末年始の予約が解禁になる日は、電話も混雑していて、希望の便をとれるかは一刻を争うのです。
当時の予約センターは、搭乗便の予約だけでなく、一般に開かれたJALの総合案内窓口(フリーダイヤル)でもありました。だから、いろいろな用途で電話をかけてくるのです。
運行状況を尋ねるのは当然として、搭乗便に遅れそうとか、飛行機マニアから機種について聞かれるとかも……できる限り対応するわけです。
旅行会社からの問い合わせもあれば、クレーム全般もくるし、予期せぬ事態への対応力というのが鍛えられたと思います。
3年間の社会勉強
結局、1年の終わりから4年の終わりまで、とても充実したアルバイト生活をさせてもらいました。
JALの子会社なので、社員さんは元客室乗務員の美しくてデキる女性や、優秀な方ばかりでした。学生にとっては嫌な上司みたいな人はまったくいないように見えたし、会社ってちゃんとしてる!っていう憧れを醸成して、会社組織で働くことにポジティブな印象しかなかったですね。
先輩や同期の子たちの中には、客室乗務員や空港のグランドスタッフなった子もいて、そもそもそのためにこのバイトを選んでいたのか、賢い!と納得。だから、華やかな子たちに会える職場も大好きでした。
最後の1年くらいは、渋谷から天王洲アイルにできた本社ビルに移転し、キレイなオフィスビルも経験できました。自宅からは遠くなっても、通う価値のあるバイトでした。
就職活動で旅行業界を考えたこともありましたが、航空会社はもちろん、JTBや日本旅行など旅行会社はとても人気があったし、就職氷河期時代でしたから、早々にほかへ舵を切ったのでした。
ありがとうJAL
あとで思うことですが、学生にとってアルバイト先は社会との重要な接点です。
脈絡もない偶然の出会いでも、関連のない業界に進んでも、このアルバイトで経験できたことは一生ものだったように思います。知識だけでなく、人としてのマナーも鍛えてもらえた現場だったことに感謝しています。
JALを利用した優待旅行で、長崎や金沢を旅行したのもよい思い出だし、その後の人生でも、飛行機や旅行自体がとても身近なものになりました。
すっかりJAL贔屓になっていたので、2010年の経営破綻のニュースは心が痛かったですね。
電話の予約センターなんていまはなくて、航空会社の垣根もなくぜんぶネットで予約できちゃうけど、その分、双方にとって相手が見えなくなってしまっていますよね。それはどんなふうに社会を変えていくのかな、と危惧するところがあります。
思い出すことが多すぎて、まったく書き足りないです。
同じころ渋谷のJALCOSで働いていた人がいたら、ぜひ声かけてください!