努力で勝てない勝負の『負け』は素直に認める。
長引くコロナ禍のなかで劇的に外出することが減り、運動する機会も少なくなって体調を崩す(体重も増える)人が増えています。毎日の通勤も立派な運動だったんだなと改めて思う日々。
そんななか、定期的に体を動かす機会をつくらないとヤバいなと感じて最近では週に2回くらい4~5kmほどのランニングをしています。
つい先日のことですが、うちの子供とたまたま時間が合ったので一緒に走ったわけです。うちの子は中学校で陸上部に所属しているのですが、僕のあたまの中では幼いときのイメージが残っていて「まだ全然自分の方が速いだろ。目的地までゆっくり走ってあげようかな」って思っていたのですが、もはやまったく勝てません。スピードも違えば体力も違う。自分の身体の衰えもあるのでしょうが、中学1年ってこんなにすごかったっけ?と思いつつ、途中から勝とうなんて気はまったくなくなってしまいました(苦笑)。
今後、おそらく僕が子供にマラソンで勝てることはないでしょう。僕が一生懸命練習したとしても彼の今後の成長にはとても追い付かない。もはや勝負をすること自体が無理なんだなと感じて、素直に負けを認めました。
※そこまでして勝ちたいとはそもそも思っていませんが(苦笑)。
ふとした生活での一コマですが、これって意外と仕事でもあるなと思いました。過去の栄光(イメージ)を引きづって、成長著しい若い方と同じ土俵で張り合い続けている人って稀に見かけます。しかもそういう人に限って自分の負け(衰え)をなかなか認められない(苦笑)。
仕事ってスポーツと違って順位とか記録とかで勝負がつく世界ではないため、なおさら自分では自らの位置や実力がわかりづらいので余計に起こりやすい事象なのかもしれません。
若いセンスや瞬発力などが必要な仕事においては真っ向勝負をしても年配の方は分が悪いですよね。年配が若者に勝るのは『経験』です。経験から導き出すアプローチであったり、多彩なスキルの組み合わせだったり、これまでに重ねた年数で積み上げたものはやはり若者ではなかなか真似できません。
仕事でも若者の方が結果を出しやすい領域と年配の方が結果を出しやすい領域というのがあるはずですから、そこを見誤ってミスマッチにならないようにしたいところです。努力でどうにかなるものでなければ、そこは素直に負けを認めて違う土俵で勝負をしたり、お互いに尊重して優れている部分を掛け合わせて実行した方がお互いにとって良いんじゃないかって思います。
世の中には「もっともらしい言葉」や「キレイごと」で無理強いをさせるときがあります。「勝てないのは努力が不足しているからだ」「本気で取り組んでいないから結果がでない」とか。もちろんそういう場合もあるとは思いますが、その言葉を妄信して無駄な努力を重ねた結果、大きな成果も残せずに時間を無駄にしてしまったという例も多くみます。その時間があればもっと他のことができたのに・・と後悔しても後の祭り、という。このため、その活動にこのまま時間をかけるべきかどうかは都度見なおした方が良いと思います。
どうしてもその土俵で勝たなければいけないという場合を除いて、勝てない勝負には初めから乗らないということも大事だと思います。冒頭の件でいえば、僕がマラソンの「時間」を子供と今後も競うのは勝てない勝負に時間を費やすことになるので無駄だと思うのです(苦笑)。
人は年齢を重ねるとともに『できること』と『できなくなること』が変化していきます。できなくなってしまうことはそこに固執せずに素直に『できない』と認めて他の優秀な人に預け、自身は『できること』に集中した方が良い。ときに『負ける』ことを認めることが、『勝つ』ことにつながることがあるということを忘れずにいきたいと思います。
自戒を込めて(苦笑)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?