作者と作品を一緒くたにした「作品」を推す最大のデメリットとは?

2/10 感想文

炎上してしまった絵師のツイートの件

原神のキャラクター「胡桃(フータオ)」に自分を投影して私生活の出来事を報告するような投稿がX(Twitter)でバズるちょっと前、自分はその絵がとてつもなく好きだった。

というのは、修学旅行で好きな人と行動できるようになったという嬉しい報告を、口元緩みそうになるようなドキドキしたフータオのキャラクターで描いた絵が初見非常に心にぐっと来た。
数日後に再び上げられる続報は、告白が成功したことと付き合えたことを伝え、これもまた真っ赤な顔をしたThe best Kawaii Award2025だろこれみたいなガチデレフータオの絵がとんでもなく「あっ、好き…」だった。

この続報の頃には少しずつ最初の投稿にインプレッションがつくようになり、話題に上がるようになっていたが、やはりインターネット黒歴史として皆さん許せないところがあるみたいで納得がいかなかったのだが、
色々見ていくうちにキャラ崩壊や創作ガイドラインの話は確かに不快に思うような人が多いだろうし、全アのようなものに嫌悪感を示すのは間違いなく理解できることだった。

しかしそれらを理解できた後も逆になんで自分がこの2作品に対して肯定的なのか、それに足る理由はなんなのかというのを、アンビバレントなメンタルでそれは不思議であったので、少し考えていた。

すこし話題になった後もしばらく肯定的であった理由

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  • ニコニコ東方時代からキャラ崩壊自体に抵抗がない

なにかコンテンツを履修する時はたいていネット上に転がっている二次創作から入り、結局まじまじと原作のストーリーやキャラクターの設定性格等にどっぷり浸かったことがないニワカばっかりだったので、「キャラ崩壊自体に抵抗がない」というと少し不正確だけども、
どんなキャラが原作の世界観から乖離した一面を見せようと、もしかしたらこの場合はこの子もこういうセリフを言うかもしれないなとか、もしかしたらもっと親しい間柄の相手とはこういうおどけた喋り方をするのかもしれないなとか、そういった空想を掻き立てる余地といったものが二次創作において尊ぶべきと思っているからと言うのが大きい。

人間が他人と関わる時にすべての自分ありのままかと言われるとそうではないということが分かる人には分かってほしい。全てを知ることはできない。誰にだって自分の知らない一面がある。奥ゆかしいという言葉は奥底を覗き見ることができないからこそ、古語では「好き」とか「趣深い」という意味を持っていた。

  • アイコンの先に理想像を纏った異性(異性ですらないかもしれない)に恋をした経験がある

個人的な話は割愛。
他人への憧れ、妄想を他人の性質の一部として思い込んで話し続けることをやったことがある。

  • 絵柄と作者の周辺情報を取り入れ、作品と作者両方に感情移入していた

絵柄が中学生~高校生の落書きっぽくて愛らしいをとても感じていたところ、やはり普段の投稿内容的にあたりであることがわかった途端、
作者の状況に立ちまさに今「恋が始まろうとしている」という期待感と、それをそっくりそのまま表現したかのようなキャラクターの表情が、まるでリアルタイムで映像に現れるような気がして、今からまた体験することが難しいであろう青春を感じていた

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要するに、「あっ、良いな…」と思った部分はもちろん作品単体もそうだが、「作品」と「作者の周辺状況/作者」の一緒くたになった何かしらに対してだったということが自分の中で整理できた。
一般的には悪い意味で話題に上がるのは自然なことでありながら、少し他とは違った理由で作者を応援できるなと思う自分も別におかしい訳では無いと腑に落ちてアンビバレントメンタルは解消された。

事態は少し変になる

X上でやっぱり大炎上を起こし、トレンドに乗じて(あるいはトレンドを免罪符にして)他の絵師たちがIFコマを描き始めたあとに、投稿者が誹謗中傷とも取れる内容に対して毅然と立ち向かうつもりであるという追加の文章をポストした。

このポストで応援していた自分が霧消した。
これについても整理したら、作品と作者を一括りにしてしまうのにはやはり少し面倒な部分があることがよく分かる。

  • 絵師として自らを売っていくには周辺の人間に非難されて当然のムーブと言える

  • 冷静では居られないと思うが、ネットで創作活動をするうえでそれはそうだよねという世間への理解度がまだ足りない部分が幼く拙い

  • 感情移入していた作者像が恋心を抱く絵のキャラクターのような時期であり、追加ポストのような切り返しをしてくることが情景的に解釈違いだった

前半2点で思った以上に「非難する側」の視点に立ててしまったことと、
トドメの3点目(あまりにも個人的であるが)で萎えてしまった。
こんなことを作者本人に届くような形でネットで投稿するのもどうかと思う。気分を害したらごめんなさい。

ここまでの時系列がタイトルの「作品に罪はない」ということを記事にしようと思い立った経緯である。

作者と作品を一緒くたにした「作品」を推す最大のデメリットは愛憎である

ネットの海を漂う作品は、いまじゃ依存しているユーザーもいるであろうおすすめTLからではその作者が普段どんな人なのかをうかがい知ることなどできないまま流れてくる。

今回の自分の場合、作品のキャラの二次創作的一面に共感しKawaiiな、にとどめておけば、勝手に少し気分が落ち込んでしまうみたいなこともなかったかもしれない。(つまり二次創作内のフータオが現パロみたいに二次創作内で修学旅行中に告白が成功するというシチュエーションで止まる解釈)

こんな素敵なことを教えてくれた作品は、一体どんな素敵な人が書いたんだろう?と興味を持つことは「Who made this(大声)」「Why?」「Cuz I LOVE It!!!!!(クソデカ大声)」「ウワァァァア」のノリと少し似通った部分もある。

しかし、作者もまとめて好きになってしまうような愛で方は、そのうち作品と作者の境界を曖昧にし、「作品内の一貫性の破綻」を見つけてしまい自分が好きだったものが好きで居られなくなる可能性を孕んでいる。

少し別の界隈の話だが、バーチャルアバターをあくまでキャラクターとして捉えたり、配信者とは区別する考え方というのは、この辺を回避しつつうまく立ち回る方法でもあったかもしれない。
なので、自分の好きなコンテンツとは好きで居られる範囲で程々に推しましょうが今回のまとめになる。

ちょっとまえに作品に罪はありますか?のような問いかけを行った音楽グループがあって、タイトルを見て読みに来た方は何だと思ったかもしれないが、今回自分の中でそれは全く別ベクトルの話である。

明らかに犯罪を犯した側の「作品に罪はないですよね?」という問いかけに答えることは、
「自分から好きになったコンテンツを自分が原因で嫌いになることを回避しよう」の趣旨から外れる。

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今日はここまで。
あまりにも眠いので迷走する前に寝ます。
いつも記事を読んでくださり感謝感激の暴風雨です。

次でお会いしましょう。

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