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醜い母親のわたし/「現代詩手帖」5月号朗読の集い「わたしが死ななければならないのなら」~いま、パレスチナ詩を読む~の夜

昨晩(2024/06/20)六本木の文喫で行われた"「現代詩手帖」5月号朗読の集い 「わたしが死ななければならないのなら」~いま、パレスチナ詩を読む~" を聴きに行きました。
子どもたちを夫にお願いして平日の夜にその場に向かったのは、現代詩手帖5月号に特集されたパレスチナ詩にひりつくような衝撃を受け、またSNSで断片的に触れるパレスチナの現状に心を痛めていたからです。

SNSには悲痛な言葉と、悲惨な画像に溢れています。パレスチナの子供達の傷つけられた、あるいは命を奪われた画像が目に触れるたびに、一秒ほどでそっと目を逸らしてしまいます。直視しつづけることができないのです。少額の寄付などはしましたが、「パレスチナのためにこれをやっています」と言えることはありません。せめて発された言葉に耳を傾け、知らなければならないと思いました。

そのように同調的な心情で参加したため、斎藤とも子さんの朗読で読まれるそれぞれの詩が、強く心にせまりました。こんなことが世界にあってはいけない、「わたしたちは人間だ」と当たり前のはずのことをこんなにも血の迸る言葉で彼ら・彼女らが証だてしなければならない世界、それを強いる世界は間違っている、と何度も思いました。それは岡真理さんの散文の朗読が始まってもそうでした。岡さんの読まれるレイチェル・コリーが、(わたしは配られたレジュメで、アメリカからガザを訪れたレイチェルがイスラエルへの抵抗でブルドーザーに轢き殺されたことを予め知っていました)、正義感にあふれ誠実で聡明な23歳の彼女が、家族への電子メールの中で、「ママ、」と呼びかけるまでは。

レイチェルが電子メールの中でママ、会いたい、と呼びかけ、ママの穏健な多数派主義に反発し、自らの葛藤を語るうちに、わたしの心に湧き上がったのはあまりに醜い考えでした。それは卑怯な心でした。もし、もしわたしの子供たち、今四歳と七歳の娘たちがいずれおなじ正義感を育み、そして不正義と暴虐に立ち向かった末に死ぬくらいなら、子供達にはこの聡明さも正義感も持ってほしくない、というものです。 ”そんなこと”より生きてほしい、不正義を認めてでも生きて笑っていてほしい、というものです。
今まさに進行している恐ろしい、悲惨な大量の虐殺も軽視し、娘たち自身の意思や尊厳もまるで尊重しない、醜いエゴでした。今までパレスチナの現状に対して抱いていた義憤も悲しみも、薄っぺらい一枚の紙に戻ってしまうようでした。認めがたいのですが、それが本当のわたしの感情でした。

その後、再び斎藤とも子さんの朗読、佐藤まなさんの苦しみを振り絞るような朗読を聴き続け、やはり心は強く動かされました。何かをしなければならないと思いました。帰ってから、パレスチナ関連の本をいくつか買い足したり、協力と抗議の方法を調べたり、少額の寄付をいくつか行いました。
けれど一晩経っても、まだ、あの時露わになった自分のエゴを忘れることができません。「子どもたちがガザに行くと言った時に、止めずに見送ることができるか」に、イエスと言えるかどうか分かりません。

ですが、レイチェル・コリーの母は想像ではなく、実際に娘を失ったのです。そして、同じように何に代えても失いたくない幾万人の母の娘たち、息子たちが今、事実として失われているのです。わたしは、どんな不正義を認めてでも娘を失いたくないと思った昨晩の感情のために、逆説的に、より強くそのことを思います。もちろん現実の底なしの悲惨さに追いつくはずもない思いですが。

昨夜、言葉を発する人々は、誰もが必死でした。今まさに進行している最悪を少しでも止めようとしていました。まだ手探りではありますが、わたしもその一人となります。

国境なき医師団 https://www.msf.or.jp/news/palestine.html

ユニセフガザ人道危機緊急募金 https://www.unicef.or.jp/kinkyu/gaza/ 




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