ポメラ日記 2020年1月23日 気持ちの秘孔を押す神拳
今日はささださんが出張でお泊まりだ。
実際の出発は昼頃なのだが、わたしの気合いが入りすぎて午前中からいないような気持ちでいた。
ささださんを見送って、すぐによんださん連れの出立の準備をする。
こちらはこちらで、今日は三ヶ月検診というイベントがあるのだ。雨で憂鬱である。
保健所に行ったら、昨日ぱんださんの保護者会で会った、同じクラスの子のおかーさんと会った。
わたしは人の顔の識別が本当に弱く、こういう場合大抵向こうから見つけてもらう。
そういえばわたし昨日と同じ服着てる、と思ったが、先方はとくにそれには触れずに楽しくおしゃべりしてくれた。保育園の先生の異動の話など、こちらが疎い話題も教えてもらえるので大変助かる。
PTA人間関係大変、という話をよく聞くが、この年頃の保育園の親たちはみな日常を回すのに必死な感じがあり、とくに面倒はない。互いの苦労を察しているためか、助け合いの精神もあり、日常とか人付き合いとかがダメそうなオーラを出しているわたしはいつも助けられる側だ。もし役に立つことがあれば助けたい。
よんださんの検診もつつがなく終わり、「でっかい、健康」というお墨付きをもらった。ぱんださんの時もこういう扱いだったな。
帰り道、駅によって、よんださんが熟睡しているのをいいことにわらび餅あんみつをアイスクリームトッピングで食べる。
いいわけをさせてもらえるなら、今日のワンオペ寝かしつけのための気合い入れだ。
ささださんのお母様が夕方だけ手伝いに来てくださるので、お弁当も買う。ちょっといいやつ。
ささださんを介しての連絡不具合でやや気をもむ展開があったが、ささださんのお母様は「ぱんださんのおむかえの間よんださんを預かってほしいので、それに間に合う時間に来る」という要望をこちらが伝えないうちに察して叶えてくださった。なんという神、なんという親切心。
優しい人というのは、そういうことに気が回る人、という意味なのだろう。
「役立つことがあったら…」とかぼーっとしていてはいけないのだ。
いけないのだ(言い聞かせ)。
よんださんが人見知りをするようになっていることが判明し、日々知らぬ間に認知能力という名の心が育っていることに驚く。
お風呂あがりまでを手伝ってもらい、ぱんださんは「あーちゃん(ささださんのお母様のこと)」にたくさん遊んでもらって満足そうだった。
あーちゃんが帰るとなって、「あーちゃんのいえにいく、いっしょにかえる」と言い出す。
大人二人で、それは無理な理由をあれこれと伝えたが、頑なに一緒に行くと言う。
そうか、と思って言葉を変える。
「あーちゃんといっぱい遊んで楽しかったね。あーちゃん帰るのさみしいね」
気持ちが伝わったことを理解したぱんださんは、主張を取り下げ、「またくるからね」というあーちゃんの言葉に素直に頷いた。
こういう、気持ちの秘孔をつくみたいなフレーズが必要なことが子育てにはしばしばあり、それは言葉や態度の表面だけ受け取っていては見えないので、かなり難易度が高い。
秘孔を見つけられないと、力ずくで振り切ったりして子は傷ついて泣きわめき、双方満身創痍となる。でもそういうことの方が多い。
早く北斗子育て神拳を継承したい。
寝かしつけは予想通り難航を極めたが詳細は省略する。
ぱんださんの髪を撫でながら、「ぱんちゃんもいろいろ我慢してるよね、ありがとうね」とささやいていたら最後は寝た。
そう、子どもは、最後には寝るのだ。