ポメラ日記 2020年1月25日 いない、ということが残る
今日は、わたしが曲がりなりにも所属している俳句同人「傍点」の新年会を家でやるので、朝からバタバタ片付けをしていた。
お客さんが来るというのは、長い間懸案であった場所の掃除などのきっかけになるのでいい。階段の埃を払うことができて、今日はもうこれでいいなと思った。
大人が十数名と子どもが七人くらい入る場所を作るため、家具やその他の道具を動かすのに、始まるちょっと前に参加者の一部に手伝いに来てもらった。
ささださんはついでにちょっと模様替えを手伝ってもらっていた気がする。
ありがとう山科さん。
三々五々人々が来て、チャイムが鳴るたびにぱんださんがお迎えに出たがる。
わたしの下駄を履いて勇んで外へお迎えに出るのだが、実際にお客さんに相対すると恥ずかしがって挨拶ができない。かわいい。
去年は同人の一人がこの世を去ったため、献杯からはじめる。
という空気を読まず、自分の杯に、故人ゆかりの酒が少量つがれた直後に口をつけてしまい、「あ、甘い」とか言ってしまった。
子どもがいると子どもを追ったり食べさせたりすることを中心に時間が過ぎる。合間に大人も飲み食いをしてしゃべる。ここにいる人は、ここにいて人としゃべりたいと思っているのだな、と不思議な感じがする。全員が全員に、濃淡はあれど何らかの感情を持って、しゃべったりしている。
そしてここにいない人も、いないことを選んだり、来られない事情があったりする。
そういうのが一切なくなって、ただいないのが、亡くなった人だ。どこにもいない、あらゆる場所にいない。
持ち寄りの一品のケーク・サレがおしゃれ名にも関わらずうまい。
パウンドケーキも。
子どもたちは一緒に遊んで、大きい子の口まねをしたり、おもちゃを取り合ったり、新しい遊びをひとりで開発したりしている。その結果おもちゃの馬にティラノサウルスが乗った。
赤子は様々な人の腕の中で構われている。
同じくゼロ歳児を連れてきた夫妻がおり、授乳のタイミングが重なって、宴会している二階とは別の階で、部屋を隣り合って授乳をした。
いつも授乳の時は、世間やさわがしさや熱気から切り離されて、少し特権的な孤独の中で時間が過ぎる。そのすっと冷えた静けさが、隣の部屋の気配でやわらいでよかった。
来たときと同じように、三々五々、人が帰る。
家の人間なので、鍵の開け閉めもあって、帰るごとに階下の玄関まで見送る。全員に見送りの言葉をかけられるので、家が会場なのは好きだ。
だれも、この先会わなくなることがあっても、それはそれぞれの都合や意志であってほしいな、と思う。
なんにもなくなって、どこにもいなくなるのは、さみしいのでやめてほしい。
みんなが帰って静かな家で、家族で夕飯はお茶漬けを食べた。
お客さんがいる間にいろいろ食べ過ぎたぱんださんはほとんど何も食べなかった。
よんださんが生まれてから二階の和室で寝ていたのを、今日を機に三階の寝室に戻した。