“all right”
もう布団に入っている。
枕元に置いたランタン型のスピーカーからは後藤正文と東郷清丸が歌う『Summer Dance』が流れている。全く季節外れだが、この時間にはよく合う歌だと思う。祭りが終わった後くらいのこの時間に。
生まれ育った街は12月中旬に一日限りの祭り…というか、市をやる。幼い頃はただ天真爛漫に両親の腕を両腕で引き寄せて、正に鎹のようにしてぶら下がって狭い道の両脇に延々と続く屋台を見上げていた。寒かった記憶は不思議となく、いつ振り返っても明るく灯っている思い出だ。この思い出があることが幸福なことなのかどうかはわからない。
「宗教に熱心な人はお断り」
私のことを何も知らない人と話したくなってネットの募集を見ていたら、そんな文句があちこちに書いてあってもう誰とも話したくなくなった。
“宗教に熱心”ってどの程度?毎週キリスト教会に通って寝る前に(眠れないから)牧師の話を流してるのは熱心ってことになるんだろうか。しかし、私には信仰の自覚がない。捧げる祈りもないし、守るべき律法もない。壷も買わない。
例のあれがあれしてからというもの、オウムから根を伸ばし続けてきたこの社会の「宗教忌避感」はますます強まったように感じる。怖いんだろう。私も人間と見れば全員怖いからわかる気がする。でも話してみればもちろん善いヤツも悪いヤツもいることも知っている。どんなものを前にしても、それだけは覚えていたい。括ってしまうことが本当はできないのに便宜上そうせざるを得ない粗さについて自覚的でありたいし、そのせいで全然楽になれない不器用な自分の肩をたまにはトントンと叩いてやりたい。
「次、行ってみよう」
モニターの中で牧師がおどけている。ま、そうだね。
〈宗教に熱心な人はお断り〉……次、行ってみよう。
今週は暇さえあれば求人サイトをスワイプしている。
世間はクリスマスやお正月で、物価高騰の折とはいえそれなりの賑わいを見せているようだ。でも私にはそんなことは関係ない。どうしてなんだろう。お金が足りません。
それもこれもあれやこれのせい。つまり自分の計画性のなさとろくでもなさが縒り上げた縄で自分の首を括ってるだけということ。だから自分でどうにかしなきゃならない。ローンもカードも5分でかんたん!審査落ち。奨学金の呪いは重い。なんてね、自己責任さ。
まぁまぁ、見ていてください。なんとかなるから。なんとかするから。
〈お断り〉で門前払いを食って他者と関わることを諦め、仕事とバイトを詰められるだけ詰めてみたら1日16時間実働になったスケジュール帳を閉じる。
居場所だと思える場所に辿り着けないのは、時間を売り心身を削ってお金を作らなきゃならないのは、やっぱり自分がろくでもないからなんだろう。うん、この社会ではそうなんだよ。現実の外からのキヤスメの言葉は虚しいだけだから聞きたくない。
人間が謳う“すべての人”には限界がある。想定されていない。当たり前を満たせていない。お断りされるような“すべての人”の内にはいれてもらえない外は、いつだってどこにだってあるのだ。どんな人格者にだって、聖人にだって、すべてなんてカバーしきれない。無限なんてない。人間なんだから当たり前だ。言う方はそれを自覚して尚口にするのだろうが、自分を内に含んでくれるものを求め孤独に彷徨っている方からすれば、言葉通りの無条件、無限を期待せずにいられない。
現実と理想。人と人との間で、言葉は輝きながらも何重もの矛盾の影を孕む。そしてそもそも、自己否定の殻に引きこもってる人にとってはどんなに自分を迎え入れてくれる場所の現実があろうと、理想の言葉がその中で輝こうと、自分を断罪して疎外するのだから、決して人と人との間に語られる“すべての人”に自身を入れることができない。私はこれだ。
それでも最近、私は自分を“すべて”の内に含む考え方の道をなんとなく見つけ始めている。
それは人と人との繋がりや言葉によるものではなく、一人ひとりが必ず持っているもの。弱かろうが烈しかろうが、灯る命で括るということだ。
肉体の話じゃない。過去も未来もない。私が、そして誰かがどうしてきて、何をしようとしているか。そんなことは一向に構わずに、区別せずに、命は在る。
自分の内を覗き込んだ時に、そこにきちんと光はある。人の間にあるような限界も、影も、ここにはない。学歴、職歴、収入、身長、容姿、学力、スピード、重量、宗教、家族、人間関係。縦横無尽に引かれた線で社会から弾かれても、そんなこと言ったってあなたも私もおんなじ命を持っている。
そう、大丈夫。
白い天井を見つめて長々と考えだけ巡らせていた。後藤さんの歌うフレーズがキリのいいところでスピーカーと灯りを消して掛け布団を深く被り直す。そうそう、「オーライ」。さ、寝よう。
“生きてるだけでもいいよね”