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一切皆苦。

 寝床でスマホを眺めていた。すると急にぐらぐらと揺れ始め、地震だろうかとじっと身構えて部屋の様子を見る。揺れが大きくなる気配はないがまだ揺れている……まだだ長いな………しばらくしてふと気付く。感じる揺れより激しくスマホを持つ手が震えている。そうか、揺れているのは世界じゃなくて私か。それを認識した途端ガタガタと手が震えてスマホを持っていられなくなった。そういえば、この1日半みかん1個しか食べていない。ひどい脱力感と息苦しさ。
 思い出す。忘れたことはない。3年前の今頃は、ほんとうにトイレにも行けず、傍らに置いたコップの水すら飲めず、寝返りすら打てないほど衰弱して呆然と天井を眺めていた。カーテンから漏れる光は白い天井を赤から青に変えた後で白くなるか黒くなる。どちらかが昼でどちらかが夜。でもそんなこともわからないくらい、呆然としていた。寝返りを打たないから背中が痛い。それでも動けなかった。私はあの日々を経ても生きてしまったから、1日半でみかん1個も食べれば上等な方だとは思っているが、あの日々で中性脂肪を使い果たして痩せた身体は栄養補給をしてやらないと今度こそだめなのかもしれない。心臓がドキドキする。肩がやたら重い。頭にモヤがかかる。ああ死にそう。あの人のことを思い出していた。

 冷凍庫に肉まんが1個だけ入っていた。
気乗りしないがレンジでチン。小包装タイプのそのビニールの袋を破こうとするも指先に力が入らず滑ってしまう。仕方なくハサミを手に取りビニールの一辺をなんとか切り落とす。何もかもが怠い。熱っぽいのに指先がやたら冷えている。だるいだるいと思いながら口にした肉まんはあまり味がしなかった。薄味なんだろうか。久しく食べていないアスターの肉まんが食べたい。あれならきっと美味しいはずた。でも肉はできれば食べたくないなあ。

 どうしてこうなんだろう。
私が守ろうとしていることはいつも意味のないものだ。私が好きな肉を食べないようにしたところで、それで安さのために動物を苦しめるだけの畜産が今すぐ廃業になるわけでもない。もちろん、気候変動を食い止められもしない。「肉を食べることは避けてる」なんて言えば色々と憶測されて面倒な奴という顔で見られる。それでもそれらの事実が私が私にできることを放棄してもいい理由にはならないと思う。動物がかわいそう、そういうんじゃない。平飼いの鶏の卵や肉が手が出る価格ならたまには食べるのも良いと思う。そして私はいつか鶏を絞め、豚や牛を殺して、その温かな死体を捌いてみたいと思っている。温度や鳴き声や感触を自分の身体で覚えて、その瞳の光を知って、より考え、その上で食べたい。食べる度に、その感覚を思い出したい。味付けをして焼いている時のいい匂いの向こうの、獣だった時のにおいを覚えていたい。もしそれ(動物達を殺すこと)ができないのなら、やはり肉を食べられるはずもないと思う。自分で殺せず、その命を貰い受ける重みを引き受けられないのなら、食べるなんておかしな話だ。本来は。
 今の私達はあまりに何も見ないで生きることができてしまっているのだ。命に直結する一次産業を汚くてきつくて危険なものだとして多くの子供が夢見ないし、多くの親という存在が子供にそれを期待しない。日本では熱波も大規模な山火事も起きないし、海面上昇で東京が沈んでしまってエライ人達の暮らしが困ることもない。今のところは。でも、世界は繋がっている。地球が一つの生き物ならば、私は確実にその一細胞なのである。ロシアがウクライナに侵攻すれば資材高騰は回り回って見えずらい形で私の生活まで降りてくる。ガザで虐殺が起こればそれもまたどんなに見なくても、どんなに自分だけのことを考えて生きていても、やはりどこかで歪の波がこちらまで押し寄せてくる。でもそれはそれとして、人が人を殺すことにこんなにも無関心でいられる私達は、これでいいんだろうか。何も生活のすべてを捧げて反戦運動を起こし、笑えないくらい心を傷めてボロボロでいなきゃならないわけじゃない。その人がその人らしく日々の楽しさ美しさを集めて生きることは大切にするのがいいと思う。ただ小さじ1杯の違和感と、忘れないこと、考えること、思うこと、それを以て私を生きることをしたい。そう願っている。だから私は肉をあまり食べようとは思わない。完全に食べないわけではない。私が引き受けられる命の重みはスナック感覚で消費できる量ではないのだ。それは人それぞれ違うはずだから、他人にもそうしてほしいとは思っていない。無意味な真摯さを私は捨てることができない。独り善がりのこだわりに過ぎない。他人は私をそういう風に見ているだろう。関係ないけど。

 血縁家族に縁のない、愛を知らないという人が、若くして子供を産む時に「家族がほしかった」「誰かを愛してみたかった」と語るフィクションを見た。こうしたフィクションの場面を見るのはこれが初めてではなかった。水戸黄門の紋所ほど定番シーンではないものの、割とこういう設定はどこかで何回か目にした記憶がある。
 わかりはする。でも、「わかる〜」と言って終わらせられない捻くれたところが私にはある。「わかりはする」…続くのは、「が」という逆説の接続詞である。その思考の流れと思いを「わかりはするが」。
 私も家族は欲しかった。幼い頃から子供を産むことを期待されていた刷り込みなのかわからないが、心から信頼を感じる人との子供をいつか産みたいと思っていた。どうしても、叶わないと知っていても、「あなた」を前にすると、そう思ってしまうのだった。どうしても叶わない、というのは、色んな意味でだが、具体的なことをここに書く気はない。ただ、双方が望みあったとて、叶うはずもないことであった。
 でも、もし、可能性に開かれた願望としてそれが私の目の前にあったとしても、私はフィクションの中の人達のように自分の「子供がほしい」「愛したい」という願望のままに子供を産めていたかどうかというと、そうでもなかったのではないかと思う。この年になったからだろうか。色んなことを考えてしまうし、第一、私の場合は「自分の子供がほしい」と思ったことはないのだ。それは、一人の信頼する人との子供を迎えたいという思いでしかなかった。私のその願望の基盤はどちらかというと子供にではなく、信頼する「あなた」の方にある気がするのだが、上記のようなフィクションの型を見るに、基盤があるのは完全に子供の方で、親となったその人はシングルであるという設定が多く見受けられた。シングルだと子供がかわいそう、などとは全く思わないが、相手が誰かよりも子供を産みたいという願望の達成に完全に比重が傾いているのは、何回見ても不思議でしかない。
 私自身生きることはつらいし、血縁家族には複雑な感情を持っている。人類はどこまでも愚かで地球にとって有害だし、この後何万年続いたとしてもいつかこの宇宙が終わる時には人類も終わるしかないのだし、私が次の1世代を生み出したところで、人生の苦悩を、辛酸を舐める人間を生み出す以上にはほとんど何にもなりはしない。こんなことを言うと「生まれてこなければいいこともなかったんだよ」となだめられることがあるのだが、生まれてこなければ悪いことだってなかったんだよ。というのが私の見解だ。よいこととわるいことを同じレーンで差し引きしてしまえば、生きることは圧倒的に苦が勝る。他の生き物を殺し、苦しめ、汚さなければ生きられず、歪み殺し合い、妬み、愛という言葉で様々な欲望を正当化しようと必死でキモい。そんな滑稽さ、罪深さを倫理的であればあるほど徐々に自覚しながらも、「生きたい」という内圧によって動かされ、そしてどうしようもなく死に近づいていくしかない。一切皆苦がすぎる。ままならな過ぎる。それでも、生きてしまっているのだから、もはやその土俵の上で「生まれてきてよかった」「生きるのたのしー!」とかバカみたいなこと言うしかないのだが、そんな苦し紛れの正しい茶番にもぐったりというのが、私の正直な気持ちであり、ここまでの人生観である。
 それでも「あなた」という前提の前では、「あなたの子供を産みたい」と願ってしまう。こんなことを真面目に話したら、ちゃんと聞き終えた後で「それは母性本能だね」と、嬉しそうに、だけど当然のように言われたことがあった。それ以来人前でこの願望を話すことはなくなった。自分の気色の悪さがよくわかったからだ。そして私の話を聞いた人のあまりのわかってなさがよくわかったからだ。
 己の人生観を裏切り、「あなた」を困らせ、叶うことは決してない。こんなことを願ってしまうのなら、考えることもできないほど幼いうちに、何も知らないうちに、「あなた」と出会う前に、産んでしまうしかなかったのではないかと、ある時期からよく思う。「産みたかった」ではなく、「産んでしまうしかなかったのではないか」である。そうしていればよかったとは思っていない。
 感情と思想は必ずしも一致するとはかぎらない。残念ながら私も人の子であり、血縁家族の中で育ったので、子供を産まなかった人の人生があまり身近でないのだろう。どうしても生涯独り身というリアルでナチュラルな人生に、ノイズとしての「子供がいる」ビジョンが時々入り込んでしまう。それほどまでに親を知っている。歪んでいようとも親の愛を受けてきた。
 だからこそ。それ故に実感をもって思う。経験に学ぶに、子供を産んだからといって、親になれるわけではないし、「正しく」愛せるわけでもない。ましてや幸せにもなれはしない。これは私の経験なのである。どんなにノイズに悩まされても、自身の経験によって、子供を産んだ後に夢を見ることができないのだ。フィクションの人たちのように、そこへ踏み切ることが、できないのだ。
 子供も所詮は他人である。私が親の分身でないように。私の子供という存在に出会ったとしても、私の子供という人は私の自己実現の一部にはなりえない。私もまた所詮は私でしかないので、その人だけの親という生き物にはなれるはずもない。寂しさは和らぐ時間が増えるかもしれないが、煩わしい方が多いだろう。寂しさを紛らわせるなんていう卑小なことに他人を使い、自分の人生を穴埋めする姿勢は、私にはひどく虚しく貧しく思えるので美的に受け入れがたい。そんな一欠片の矜持も保てないのなら、最早人間じゃないとさえ思う。そういう人生観なのである。
 もしも「あなた」がいて、もしも子供を産めるのなら、その時はいつあなたたちを失っても私でいられる私でなければならない。そしてそんな日は来ない。だからフィクションを羨みながら、少し嘲笑いながら、こんな日記をダラダラと打っていた。



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