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国際協力に潜む「支援獲得競争」

なんとブログを再開した。
全世界の読者が待ち侘びたことだろう。
僕の家のポストには毎日何通ものファンレターが届いていたし、家はプレゼントの山だった。
嘘である。
家のポストに投函されるのなんてカード会社からの督促状くらいだし、家の中にあるのはところかまわず粗相をする猫の吐瀉物か糞くらいだった。

コロナ禍にハマったブログをやめて、僕は日常世界で相変わらずすってんころりんしていた。
何の気が向いたか知らないが、ちょっとまとまった用事が片付いて開放感があるので書いてみているくらいである。

コロナ前から今まで、僕はずっといわゆる「海外ボランティア」と呼ばれる界隈にいた。
かなり多くの団体と、参加する大学生と、仲介する人たちと、被支援者となる人たちと、その周辺の人たちと関わってきた。
直接的であれ、間接的であれ、結構な数の組織と関わりを持った。

僕はもうずっぷり浸かってしまっているので、もはや「初めて参加する人の気持ち」に対して明瞭に想像力を働かせることができない。
そのせいで仕事にいくつかの支障が出ることもあったが、そんな時こそ直球コミュニケーションである。周りに助けられてきたということだ。

今日は久しぶりに筆を走らせる気持ちになったので、僕がずっとモヤモヤしていたことを書き記しておこうと思う。
もちろん、僕程度の知見なんて知れている。
「海外ボランティア」「国際協力」「国際開発」…。何でもいいが、僕はそんな職に長年身をおくベテラン達の足元にも及ばない。

しかし、ここ数年でマジで命の危険を感じる機会が増えた。
トルコで15人ほどの警官に囲まれた時、インドの列車から落ちそうになった時、ヒマラヤに向かう山道で事故った時。
最悪の事態は意外と起こりうる。

たまたま死んでないだけの命の幸運に感謝して、今日も筆が走るというわけだ。


書くのはタブー?


僕が開発に関する卒論を書いているのは同級生の間では有名な話で、別にそれが何だってわけではない。
しかし開発について、人類学について学んでいるときに、その「専門主義」的な視点に辟易とさせられることが多々ある。 

自分たちは「一般の人」よりも多くが見えていて、私たちは「特別な力」によって知を独占しているのだというような物言い。
だからこそ、自分たちが「暴いた」ことは慎重に、丁重に取り扱い、「一般の人」に伝える方法を考えよう、といった態度。

反吐がでる。嘘は苦手だ。それに僕は専門家じゃない。
これから書く話はプライバシーに配慮した上で具体的な団体名や個人名を伏せるが、僕と関わりの深い友人ならそれとなく察しがつくだろう。
そんな時こそ、直球コミュニケーション。
開発の過度な現場主義もけっこう問題だが、机上でふんぞりかえるよりはいくらかマシだろう。
ということで書かせてもらう。
僕以外の人から見たら、それは正義ではないのかもしれない。
でも「正義の反対はもう一つの正義」と野原ひろしも言っていたしね。


支援は「買い物」か?


草の根が増えた。小さなNGOが増えた。それを繋ぐ人も増えた。
SNSを用いて、個人単位で活動する人も増えた。
学生がチームを組んで、大きな結果を残すことさえ、もはや珍しくない。
大きなお金を扱うところもある。ハード支援をバンバンやって、国のお金さえ動かすような組織も多い。

そこでは、「支援」と「被支援」を仲介する人物が必要となってくる。
彼らは「スポンサー」を「現場」に案内し、説明し、「議論」の場を用意する。

必ずとは言えないし、ここはあくまで僕の印象論だという前置きをここに置いておこう。これは論文じゃないしな。予防線、予防線。
あくまで僕の印象論であるが、「ヒアリング」の場において、「被支援者」から「支援者」への語りは、時にセールストークのような様相を帯びることがある。

例えば、貧困街ひとつ切り取っても、問題の山である。
当然だ。そこには「問題をつくりだす」やつがいるから。
「これは問題だ!」と大きな声を立てて、「発見」したかのように「発明」し、それが共有されて「問題」になる。

支援者が「ここの問題は何?」と聞いた時に、例えば、身体障害を持つ子供を連れてきたらどうだろう。同情を引くことが出来る。
例えば、栄養失調でお腹が膨れた子供を見せようか。写真を撮って世界に伝えてくれ。
例えば、「ゴミが臭くてかなわない」と答えたらどうだろう。学生向けのプロジェクトにつながりそうだ。

ヒアリング調査はあくまで問題を炙り出すことを目的としているから、どんな思惑が水面下でぶつかろうと、そこは上手におままごと。(日本人のお家芸でもある。)

「国際協力」の名のものとに、人々の「善意の寄付」によって運営される組織は、市場競争から離れた場所(善意のユートピア)にある行いだと想定されることが多い。
しかし、実際は支援を「勝ち取る」ためのアピール合戦になってしまうことだって多いのだ。

このような状況の背景では、支援者が「数多ある空間から、支援対象地域を選ぶ」という権威に満ち溢れた選択権を持っていることを忘れてはならない。
「実現可能か?」「予算の都合は?」「年数は?」「場所は?」
多くの条件のもとで、人の住む場所を調べ、選ぶ。
データにうつらない人生は「いったんなかったことにして」。

そう、彼らは命を選ぶ。

彼らと言ってしまったな。紛れもない、私も手を染めている。
いったい何人の人に背を向けてきただろうか。

天国があるかどうかは知らないが、地獄への近道なら知っている。
国際協力をやればいい。
 

「言えない」「言わない」


どんな場所で仕事するにしたって大事なこと。
「相手は馬鹿じゃない」。見限った時点で終わりである。

支援を「勝ち取ろう」とする様は、営業マンのそれに酷似している。
招待、歓迎、関係構築、サービス、課題の提示、共有、解決方法。

そうやって生まれた仲介者は決まって、良い収入を得る機会になることも事実である。
もはや支援獲得競争のアピール合戦と化したヒアリング現場でも、そこはあくまで「善き行い」の体を保たなくてはいけない。
だから言葉を変える。(ヒアリングは決まって記録に残るしね。)

「問題だ」「支援があれば変わる」「子供達のために」「自由」「未来」「希望」
ポエミーな言葉が並び、それは営業の現場ではないかのように見える。
みんな巧みだ。
「金をくれ」
その一言で溢れ出る卑しさが、利己心が、打算性が、全てをなしにする。
支援によって手に入れることができる職も、機会も、金も、新たな生活も、全てなくなってしまう。
チャンスを与えるものと得るもの、その絶対的な権力関係の元、集合写真を撮れば「パートナーシップ」の言葉が添えられるのだ。

もう一つ忘れてはならないことがあるのなら、それは「被支援者」はいつだって「チャンス」が少ないことである。
そこには社会構造によって、差別によって「押し込められた」状態がある。
職につく機会が、「普通」の生活をする機会が、多くの人よりもよっぽど少ない。

だからこそ、「支援されるかもしれない」というのは実にビッグチャンスであり、勝ち取るべきものなのだ。
ヒアリングで唾を飛ばして話す姿が、支援獲得以前に彼らのわずかな収入源となっていた「押し売り」の姿に似て見えてしまうのは、何とも皮肉な話である。


善意の果てに


これまでの話を通して、僕が最も問題視していることを話そうか。
支援を試みる側に、支援を勝ち取ろうとする側に、「悪意」が全然ないことだ。
「誰かを助けたい」「生活を変えたい」「子供に教育を!」(そのために金を!)
その眼差しに、言葉はまっすぐである。「本気で」そう思っている。

そして、人と金を動かす大きなプロジェクトを扇動する「ヒーロー」のような人たちが、競争原理を世界の隅々まで浸透させる。
市場競争に引き込み、そこで「勝ち上がる」力を与える。
それが「豊かになる」ことだと。

ブルントラント・レポートからそろそろ半世紀。いったん立ち止まってみないか。

この世界は、善人によって壊されてきた。

熱い思いが、譲れない覚悟が、世界中の隅々の、田舎の先の田舎にまで、同じような基準を置いてきた。
その基準はとても強固で、頭の中に根を張る。
複雑性に満ち溢れた開発現場の網を解くにはとても時間がかかる。
六本木ヒルズと稲穂のどちらが美しいか比べた時、それは単純な答えに終わらない。
開発の渦に引き摺り込まれた身として、これからも考えなければならない。

「豊かさとは何か」、そんな曖昧な問いを本気で考えるタイミングが来ている。
今言えることは少ない。
ただ、全世界に効率性と画一化の競争を敷き詰めた先にある未来など、僕らに選ばれるべき世界じゃない。

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極悪
どうも。 サッと読んでクスッと笑えるようなブログを目指して書いています。