【小説】月光の約束 第五話〜メッセージ〜
第五話 メッセージ
遥は足を踏み出し、古びた門に近づいた。門の金属製の装飾には、年月を感じさせる錆が浮いている。それでも、月を模した意匠がどこか荘厳で、遥の胸を高鳴らせた。
「ここはあの人がいた場所なの?」
遥の声は風にかき消され、庭の静けさに吸い込まれていく。
門の鍵はかかっておらず、重たそうに見えた扉をそっと押すと、思いのほか軽く開いた。ギィッという音が静寂を破り、遙は無意識に息を詰める。
中に足を踏み入れると、荒れ果てた庭が広がっていた。枯れた噴水は水を湛えることなく、苔むした石像が無言で彼女を見つめているように感じられる。その景色に足を止めた遥は、胸元を手で押さえた。鼓動が速くなっているのを感じる。
「誰もいないのかな……」
恐る恐る洋館へ向かって歩き始めた。
扉の前に立つと、その重厚な木製のドアには奇妙な紋章が刻まれているのが目に入った。それは遥が買った本の表紙に描かれていたものと同じ紋章だった。本とドアを見比べる。月と星が交差するそのデザインは、まるで「ここが正しい場所だ」と示しているように見えた。
「これは偶然じゃない……」
遥は再び深呼吸し、意を決してノブに手をかけた。しかし、思った以上にノブは冷たく、まるで館そのものが彼女を試しているようだった。力を込めて扉を押すと、わずかに軋む音を立てて開いた。
館の中は静寂に包まれ、空気はひんやりとして肌寒い。天井は高く、古びたシャンデリアがわずかに揺れている。遥が足を踏み入れると、古い木の床が微かにきしむ音を立てた。
「誰かいませんか?」
遙の声が、静寂の中に吸い込まれる。玄関ホールは広々としており、古い家具や壁に飾られた絵画が並んでいる。
そのどれも埃をかぶり、長い間、人が訪れていないことを物語っている。
ふと、目の前の階段に気づく。その手すりには、月を象った模様が連なって彫られていた。遥は心を引かれるように階段を上り始める。階段を上がるたびに、彼女の中で何かが目覚めるような感覚が広がっていった。
2階に上がると、遥は廊下の突き当たりにある部屋の扉から、微かな光が漏れているのを見つけた。好奇心に突き動かされるように近づいていくと、扉は少しだけ開いており、隙間から柔らかな光が差し込んでいるのがわかった。
遥はそっと扉を押し開けた。中には、見覚えのある部屋が広がっていた。
「彼がいた部屋だ」
中央に一つの机が置かれており、古びた天文書が開かれていた。だが、それだけではなかった。机の周囲には、天球儀や古びた万年筆、そして幾何学模様が描かれた紙片が散らばっており、それらがまるで彼女を待っていたかのように配置されていた。
彼女が近づくと、机の上に置かれていた天文書のページが、不意に風もないのにゆっくりとめくれ始めた。遥は息を呑み、その動きを見守る。やがてページが止まると、そこには複雑な星図とともに、一つの短い詩が記されていた。
「月の光は魂を導き、星々の記憶は真実を紡ぐ。
古き約束を果たす時、門は再び開かれる。」
その詩を読んだ瞬間、遥の胸に奇妙な感覚が広がった。それは懐かしさとも、胸騒ぎとも言えない複雑な感情だった。気づけば、指先が震えている。
「約束……?」
遥は声に出して呟いた。その瞬間、部屋全体が微かに震えた。机の上に広がる天文書の文字が、淡い光を帯び始める。遥はその光に目を奪われ、身動きが取れなくなった。
「これ……何かの合図……?」
光は徐々に強まり、部屋全体を柔らかく包み込む。机の上に散らばっていた紙片や天球儀が輝き始め、それぞれが命を宿したように震え動いている。やがて、机の上の天文書が開かれたページをめくり始めた。遥は吸い寄せられるようにそれを見つめる。
天文書が止まったページには、複雑な星図とともに一つの短い詩が浮かび上がっていた。
「月が満ちるその夜に、
魂は再び交わる。
古き約束を紡ぐ場所、
銀の光が導かん。」
遥はその詩を声に出して読み上げる。読み終えた瞬間、詩の文字が天文書から淡い光を放ちながら空中に浮かび上がり、遥の胸の奥深くに何かを刻みつけるように消えた。
「月が満ちる夜……?」
そのとき、ふいに机の上に置かれていた天球儀が回り始めた。星々を模した小さな光が天球儀から溢れ出し、部屋の壁や天井に映し出される。光の中に浮かび上がる満月が、遥の心にさらなる確信を呼び起こした。
「次の満月の夜……ここに来れば何かが起きる……?」
遥が星図に目を落とした瞬間、不意に部屋の空気が変わったように感じた。古びた机の上に置かれた天球儀が、何の前触れもなくゆっくりと回転し始めたのだ。遥は驚きで息を呑んだ。風はなく、部屋の静けさの中で、その動きは不思議なほど自然に見えた。
天球儀の動きが止まると、遥の視線はその中心に彫られた満月の意匠に引き寄せられた。そしてそのすぐ下、天球儀の台座に刻まれた小さな文字に気づいた。
「次の満月の夜……ルナハウスで待つ。」
遥は思わずその文字を指でなぞった。その感触はほんの少し温かく、まるで誰かがそこに触れていたかのようだった。文字はいつからそこにあったのだろう?
「……これは、夢で見た人が残したもの……?」
「満月の夜……またここで?」
彼女の心には不安と好奇心が入り混じった感情が渦巻いていた。けれど、この場所が彼女を導いていることは間違いないと感じた。
「次の満月……絶対にここに来る。」
遥は天球儀にそっと触れ、その冷たい感触を確かめた。それはあまりにも静かで、それでいて確かな存在感を持っていた。この場所が、そしてこのメッセージが、彼女にとって特別な意味を持つことを示しているようだった。