海外添乗員という職業から学んだこと
「◯◯っていう旅行会社、知ってる?」
リビングにいた母が聞いてきた。
「知らない」
「昔よく新聞に広告が出てたのよ。海外ツアーの」
「ふ〜ん」
「調べてみたら?」
「……」
大学3年の2月。ぼくは就活サイトを眺めていた。海外へ行く仕事と、書く仕事。この2つが同時に実現できる仕事をしたい。
それが就活の軸になったのは、半年前の夏休みに経験した、西日本一周の自転車旅がきっかけだった。
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(日本地図は本当に正しいのだろうか?)
そんな疑問が中学生の頃からあった。地元・横須賀から鹿児島まで自転車で走り、道が地図通りにつながっているのかこの目で確かめてみたい。それが旅の動機だった。
1ヶ月間のひとり旅を両親が心配したので、出発直前にブログを開設した。
「ここに日記を書くから、それで安否確認してて」
西日本の県は、ほとんどが初めて訪れる土地。新鮮で刺激的な日々だった。
美しい景色、初めて食べる料理、人の親切、心温まる交流、驚きの出来事、山道の過酷さ……。ひとり旅だけど、ブログに書いて共有することで、みんなと一緒に旅しているような気持ちになれた。
(ただ出来事を綴っているだけなのに、どうしてこんなに楽しいのだろう?)
気付けば読者は増え、頻繁に応援コメントがつくようになった。
その影響で、ぼくは「旅と書くこと」に夢中になった。日本を旅して、今度は海外への興味が湧いてきた。世界地図を広げれば、日本はこんなにも小さく、世界はこんなにも広いのだ。だから、20代のうちにたくさんの世界を見てみたかった。その経験はきっと自分の幅や視野を広げるものになるだろう。
しかし、会社員になれば、長期休暇はわずかしかない。それにプライベートの旅行は当然大きなお金がかかる。
(仕事で海外へ行きたい)
そして駐在員としてひとつの国に長く滞在するよりかは、できるだけたくさんの国を訪れられる仕事が理想だった。
そんなうまい話は滅多にないだろう。だけど、旅行ガイドブックを制作する仕事であれば、もしかしたら現地へ行きつつ、文章も書けるのではないか。そこで、旅行系の出版社を志望するようになった。
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「募集:年間100日以上海外に行ける方」
奇妙な募集要項を目にした。
母から聞いた耳慣れない旅行会社を、「一応」と思って何気なく調べたときのことだった。
(年間100日も? どんな仕事なんだろう?)
どうやらツアーに同行する 「海外添乗員」という仕事らしい。書く仕事ではないが、海外へ行ける点では、これ以上ない仕事のように思えた。
面接は順調に進んだ。専務(次期社長)との面接で、ぼくは率直な想いを伝えた。
「たくさん海外へ行ける点で御社は非常に魅力的なのですが、ぼくは書く仕事もしたいので、今は『地球の歩き方』の◯◯◯社が第一志望です」
すると専務が、「いやいやいや」と慌てて机上の雑誌を手に取った。
「うちにも書く仕事はあるんですよ。海外ツアーを紹介するこの情報誌を毎月自社で発行していてね、どれだけツアーが売れるかはこの誌面にかかっています。だから、文章で旅の魅力を伝えることは非常に重要なんです。あなたには編集部で、この雑誌を作ってもらいたい。もちろん添乗にも出ながら」
たくさん海外へ行けて、文章を書ける。その言葉で、ぼくは入社を決めたのだった。
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しかし1年後、ひたすら怒られる職場での辛い日々に、この仕事は心底自分に向いてないなと思った。さらに4ヶ月後、添乗員として初めて海外を訪れたとき、これはもう完全に道を間違えたと思うくらい、苦手意識を持った。
「旅が好きなこと」と「旅を仕事にすること」はまったく別物だった。自分自身が楽しむことしか考えてこなかった人間が、お客様を楽しませよう、最高の旅だったと思ってもらおう、と考えなくてはいけないのだから。せっかくの海外で、それも初めて訪れる土地で、自分の好奇心を抑えなければいけない。
海外添乗員の主な仕事は、ツアーに同行してお客様の安全を守り、予定通りに旅が進むよう旅程(スケジュール)を管理することである。現地ガイドが不在の場合は、添乗員自身が街の案内や説明をすることもある。
ぼくはてっきり、「未訪問の国を添乗するときは、事前に下見に行けるのかな」などと甘いことを考えていた。しかし、添乗はいつだってぶっつけ本番だった。
たとえ初めて訪れる国であっても、プロの添乗員として派遣される以上、「さすが詳しいね」と言われるくらい予習しなくてはいけない。そして、街や観光名所の概要、バスのルート、トイレの場所に至るまで、様々な情報を頭に入れて堂々と案内するのだ。決して簡単な仕事ではなかった。おまけに、お客様の大半が60〜80代のシニア世代。毎回、ものすごいプレッシャーである。
バス内でうんちくを話すのも緊張する。かといって添乗員が黙っていれば、長距離移動の時間がお通夜みたいな雰囲気になってくる。そんなこんなで、入社後しばらくは帰国後のアンケート評価で落第点ばかりで、辛い日々を過ごした。何度も辞めたいと思った。
でも仕事を辞めるのは、辛くて辞めたいときではなく、「この仕事も楽しいし、辞めなくてもいいかな」と思えたときにしよう、という気持ちがあり、いつもギリギリのところで踏みとどまった。たとえ仕事が向いていなくても、なんとか自分の良さを出せないだろうかと、必死にもがいていた。
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入社から約半年が経ったある日、上司に呼び出された。
「中村とバルト三国に行った◯◯さんと、さっき電話で話したんだけどな。すごい残念がってたよ」
「え!? ツアー中お話しましたけど、楽しそうにされていましたよ」
「お客さんもな、多少不満を持っていたとしても、やっぱりお世話してくれている添乗員に対して、面と向かって言えない部分もあるんだよ」
「……。ぼくの何がいけなかったんでしょうか」
「◯◯さんが書いたツアー申込書の下に、『タリン(エストニアの首都)では旧市庁舎に入ってみたい』ってひと言書いてあったの、読んだか?」
「あ〜、読んだと思うんですが……」
「なんでわざわざ、◯◯さんがあそこに書いたかわかるか? 自分で勝手に行けるなら書かないよ。添乗員に手伝ってほしいから、書いたんだろう。『本当はタリンの自由行動時間で行きたかったのに、中村さんは何も案内してくれなかった。言葉も通じないし、不安だから諦めた』って残念そうに言ってたよ」
「え……」
「お前はさ、まだ若いんだからいいよ。これから先、バルト三国なんて行こうと思えば何回でも行けるよ。でも70を過ぎたお客さんにとっては、きっともう二度と行かない場所なんだよ。旧市庁舎を見るためにまたエストニアへ行くと思うか? 行かないだろう。あの人にとっては、最初で最後のバルト三国なんだよ。その大事な旅行を、お前は預かっていたんだよ。何としても楽しんでもらおう、悔いの残らないように希望を叶えてあげようという気持ちが、お前にはあったか?」
愕然とした。
それまでは、添乗で失敗しても、どこか他人事のように考えているところがあった。
だけど今回は、(ちょっと遅過ぎたけど)社会人になってから初めて、偽りのない本心から、反省した。会社員としてではなく、ひとりの人間として、やってはいけないことをやってしまった。お客様の希望を叶えてあげられなかったことが、本当に悔しかった。
この出来事がきっかけで、仕事と向き合う姿勢が変わった。「本当は優秀なはず」という幻想を完全に捨て去り、「ダメな自分」を素直に認めた。そして反省と改善を繰り返すようになった。
余計なプライドを捨てたところから、自分が少しずつ成長していくのを感じた。
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だが、バルト三国での失敗は後を引いた。ぼくが海外へ出ることは、その後しばらくなくなってしまった。社会人2年目では、添乗はわずかに一度きり。それも、前年に経験済みのツアーだった。同期たちは毎月のように異なるツアーに添乗しているというのに、ぼくは来る日も来る日も、本社でツアー情報誌の編集をする日々だった。
その時期、確かに文章力は鍛えられた。しかし、添乗員としてたくさん海外へ行きたいから入社したのに、ぼくはこの先も滅多に添乗へ行かせてもらえないのではないか。そう思っていたから、社会人3年目の5月、突然上司から「中村、来月添乗だ」と言われたときはビックリした。
「え!? どこですか?」
「プリンス・エドワード島」
そこは『赤毛のアン』の舞台となった、カナダ東部にある「世界一美しい島」と謳われる場所だった。
ぼくは初心にかえって、参加者20名の申込書を入念に読み込んだ。ツアーへの期待や思い入れをメモし、一人ひとりに対して、絶対に楽しんでいただこうと決意した。
「小学生のときに『赤毛のアン』に出会って、それ以来ずっと憧れの場所でした」と書かれた70代の方もいらっしゃった。数十年に渡って抱き続けた憧れの旅が、ようやく実現するのだ。台無しにはできない。
ぼくは、それまでの「とにかく失敗しないように」という「守り」の添乗ではなく、「お客様が喜びそうなことなら何でもしよう」という「攻め」の添乗をしようと決めた。
あったら嬉しいだろうなと思う場面で手作りのおにぎりを用意したり、朝食に野菜がついていない日は持参したわかめスープを提供したり、魚料理が出て「ちょっと味が薄いわね」なんて声が聞こえた瞬間、「良かったら使ってください」と忍ばせておいた醤油を出したり、モーニングコールで体調の悪そうな方がいたらおかゆを作って持っていったり、「赤毛のアンのミュージカルが観たい」というお客様のためにチケットを買いに走ったり、出発のフライトが大幅に遅延したときは航空会社のアメリカ人に「大事なお客様を待たせているんです。みんなの軽食代を出してくれませんか?」と交渉して240ドル分の食事券をもらってきたりと、添乗に関していつも消極的だったそれまでの自分には、想像もできなかったくらい攻めた。
英語は苦手だったけど、「こうしたい」という情熱やジェスチャーで、空港職員やホテルのマネージャーに力になってもらうことができた。
ツアー出発前夜、ぼくは終電まで先輩からの添乗レクチャーを受けていた。カナダ担当の先輩もまた、ぼくの添乗がうまくいくように、熱心に指導してくれた。
「もう教えられることは全部伝えたけど、最後に1分だけ」
深夜0時を回った頃、先輩は言った。
「観光って、『光を観る』って書くじゃん。お客さんは景色とか、文化とか、その国の『光』を観に行くんだよ。景色だったら、天気が悪ければ台無しになるかもしれない。でもね、添乗員である中村くんが光になれば、お客さんは天気が悪かろうが、教会が工事中だろうが、いつでも『観光』ができるんだよ。だから、天気が悪いから旅が悪くなるなんて、決してないんだよ。中村くんが暗ければみんなも暗くなるし、明るければみんなも明るくなるんだよ。中村くん次第だよ、頑張って。応援してるよ! お気をつけて!」
実は、カナダの天気予報を見ると、ツアー中はずっと雨の予報で、気を揉んでいた。そんなときに先輩がこの言葉をかけてくれて、たとえ天気が悪かろうが、ぼくだけは絶対に光り輝いていようと決意した。
現地では実際に雨やくもりばかりだったが、そんなことはお構いなしに、皆さん楽しんでくださった。一番のハイライトとなる日だけは、予報を見事に覆して午後から青空が広がった。晴れて、こんなにホッとしたことはない。
そこには一面紫の、満開のルピナスが咲き誇っていた。それまでにあった様々な苦労の分、余計に「なんて美しいんだろう」と思った。心にいつまでも残る、忘れられない風景だ。
帰国後のアンケート結果は、96点。それまで落第点ばかりだったダメ添乗員は、初めて会社から表彰され、報奨金をいただくことになるのだった。
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南フランスの地中海沿いをバスで移動しているときだった。
「実は学生時代、この道を自転車で旅したんです」
窓の外を眺めていたお客様たちから、一斉に視線が向けられた。
「バルセロナの方から、ニース、モナコを通って、イタリアへ抜けて……。そのとき、こんな出来事がありました——」
大学4年の夏に敢行したヨーロッパ自転車旅。その経験をツアーに関連づけて話し始めると、お客様が真剣に聴いてくれているのを感じた。普段、歴史や文化にまつわるウンチク話をしても、眠ってしまうお客様も多いなかで、この日は全員が起きて耳を傾けてくださった。実体験だから、自分の言葉で生き生きと話せた。
さらに派生させて、飛び込み営業をしてスポンサーを集めて旅を実現させた話や、そもそもなぜ自転車旅をするようになったのかという個人的な話もしていった。すると信じられないことに、最後は拍手まで起こったのだ。こんな経験は初めてだった。
「良かったよ」
「明日もまた続きを聞かせて」
途中の街に到着すると、バスを降りてくるお客様から次々と言われた。
その後の自由時間には、ひとり参加の女性から声をかけられた。
「あの話に台本はあったの?」
「いえ、アドリブです」
「とっても面白かったわ。長時間よく何も見ずに、周りの景色にも気を配りながら時間ぴったりに話を終わらせて、感心しました。中村さんの挑戦の話を聞いて、勇気づけられたの。私もまだまだこれからだ、って。海外旅行は今までほとんどしたことがなかったから、これからたくさん行くわ。だからまずは英語を勉強するって決めたの。
さっきガイドさんが、『ゴッホが生きている間に売れた絵は、たった一枚だけだった』って話をしたでしょう。生前に彼の絵をたくさん買っていたら、あとで大儲けできたでしょうね。その話を聞きながら、中村さんのことを思ったのよ。あなたに関しても、これから同じことが起こると思うわ。今のうちにサインをいただいておこうかしら。私、添乗員としてではなく、ひとりの人間としてあなたのこと興味深く見ているわよ」
自信をなくして承認欲求の塊のようになっていたぼくにとって、耳を疑うような奇跡のお言葉で、涙が出るほど嬉しかった。
自分の経験ならいくらでも話せることがあった。それ以来、苦手だった長距離バス移動の時間が、武器に変わった。諦めなければ、きっとどんな仕事においても自分の持ち味を活かすことができるのだ。
社会人3年目になり、あるときお客様から「添乗員は天職ね」と言われて驚いた。もちろん自分ではそんなこと思っていなかったが、そう言っていただけるくらいには仕事ができるようになったんだなと自信になった。
そして入社して5年目のある日、上司に呼ばれて、添乗員ランクが最高位に昇格したことを告げられた。新人の頃からは想像もできなかったことである。それまで好きなことばかりやってきた自分にとって、会社員時代に得られた大きな収穫は、「向いてないと思う仕事のなかにも、成長のヒントが隠されているのではないか」という気付きだった。
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「あんたが中村さんか〜。いや〜、ほんま会えて嬉しいわ〜」
入社5年目の夏も、前年に引き続きフランスの「ストラスブール長期滞在の旅」に添乗した。しかも今回は、1ヶ月間も滞在することになった。期間中、日本各地からたくさんのお客様がこの街へやってきて、思い思いに滞在を楽しむ特殊なツアー。ぼくはほかの添乗員と連携を取りながら、お客様が快適に滞在できるようサポートした。
現地に到着するなり、大阪からお越しのお客様がぼくのところへいらして、マシンガンのように話し始めた。
「あんた、去年もストラスブール来たやろ。◯◯さん覚えとる? あんたがサイクリング連れてった人や。うちの旅仲間なんやけど、あの人がまあ、あんたの話しかせんのや。うちもな、去年あんたが帰ったあとに、ストラスブールにおったんよ。したら、◯◯さんが言うんや。『サイクリングが最高に楽しかった』って。は? 旅行会社のツアーでサイクリングなんてあるん? 思ったけど。もう◯◯さんその話しかせんのよ。
日本の自転車と違ってサドルが高いから乗りにくいんやけど、あんたがみっちり教えて、うまく乗れるようになってから道路走らせたんやって? ほんでな、いちいち道は詳しいし、ヨーロッパでの自転車道のルールとかいろいろ話したやろ。『完璧に案内してくれて、あれはほかの添乗員には絶対真似できない、彼にしかできないサイクリングツアーだ』って言うとったで。
せやから、うちもフランスでサイクリングしたい思ってな、『中村さんどこにおるんや』って彼女に聞いたら、『もう日本帰った』言うからな、あちゃ〜思って。サイクリングできんかったのだけが去年の心残りやったんや。
それで今回もまたおたくの営業電話で、『ストラスブール行きませんか』って誘われたんやけど、正直どないしょうと思うててんで。せやけど『今回のツアー、添乗員どちらさん?』って聞いたら、『東京の中村という社員です』言うからな、『当たりや!』思って、それで決めたん。あんた大阪で有名やで? ◯◯さん言いふらしてるから。あっはっは! せやからあんたに会えて嬉しいわ〜。そんであんた、うちをサイクリングに連れてってくれへん?」
彼女の言葉は、ぼくの心に火をつけた。自分にしかできないやり方で、最高の思い出を作ってあげたい。
後日、お店で自転車を借りて、郊外へ。運河と広大な畑に挟まれた、緑のサイクリングロードを走った。
「うわ〜。こんなのありか? こんなのありか? なあ、夢とちゃうん? うち、サイクリングロードっちゅうの走ったのも生まれて初めてや」
70歳のお客様は、目を輝かせながら走っていた。まさに夢のようなサイクリングロードだった。
郊外の駅まで走り、トラムに自転車を載せて、街の中心まで戻ってきた。そんな体験も、ヨーロッパならではのもの。お客様ひとりではなかなかできないことなので、喜んでいた。
街で昼食を取り、再び自転車に乗って、今度はドイツ国境を目指した。ライン川に架かる橋が、国境になっている。しかし、橋が見えてきたところで、まさかの雷と土砂降りに襲われた。もう少しで国境だったのだが、すぐ近くのケバブ屋に一時避難した。トルコ系の人がやっているお店のようで、英語もろくに通じなかったが、雷を指差して笑いあっているうちに仲良くなってきて、彼らと一緒に記念撮影をするまでに。このようなささやかな交流を、ぼくは学生時代にもたくさん味わってきたが、ツアーでしか海外旅行をしたことのないお客様にとっては新鮮だったようで、本当に嬉しそうだった。
やがて小降りになったので、橋を渡って一瞬だけドイツに入国してから、街に戻ってきた。自転車で国境をまたぐ経験も、もちろんその方にとって初めてのことだった。興奮と感動は収まらない。
「夢って叶うんやなあ……」
という言葉を残して、キラキラした表情で部屋へと戻られた。笑顔が若々しかった。
翌朝、そのお客様と朝食会場でお会いした。
「中村さん、昨日はほんまにありがとう。今までようさん旅行してきたけど、海外でサイクリングなんて、初めてやで。夢みたいやった。あとは帰る日まで本読んどる。それで満足や。この歳になって、初めてのことだらけやった。あんな素敵な体験したことない。今回ツアーに参加して良かったわ。あんた、一生の宝物を作ってくれた」
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退職するまでに、500名近いお客様を旅行にご案内してきた。もちろん、日本全体の海外渡航者数を考えれば、ごくわずかな数字である。しかし、添乗員としてツアーを成功させることができたら、自分と向き合ったお客様が、その国や、その国の人を好きになってくれる。
「中村さん、私ブルガリアって、来るまではなんとなく暗いイメージがあったけど、今回行ってみて本当に良かった。季節を変えて、また訪ねたいわ」
地道な活動ではあるが、意義深いことだと思った。
「中村さん、お休みのところごめんなさい。ちょっといいかしら」
「どうされました?」
社会人2年目の夏のこと。添乗員として同行したオーストリアのツアーが無事に終わり、成田空港へ向かう帰りの機内で、お客様のひとりがぼくの席にやってきた。
「駅のホームで中村さんに言われたことが忘れられなくて。あのときの御礼を伝えに来ました」
「駅のホームで? ……何を言いましたっけ?」
「イェンバッハで乗り換えの電車を待っているとき、反対側のホームにおもちゃ屋さんがあったから、行きたいと思ったの。孫へのお土産が買いたくて、ずっと探していたから。だけど、ひとりでは言葉が不安だった。中村さんに付いてきてほしかったけど、ほかにもたくさんのお客さんがいたし、私だけわがまま言ったらご迷惑かけてしまうなと思ったのよ。だけど中村さん、『おお、行きましょう行きましょう!』って、私だけのためにわざわざ連れて行ってくれて。『ご迷惑じゃないかしら?』って聞いたら、あなたこう言ったのよ。
『何言ってるんですか。◯◯さんを連れて行くためにぼくがいるんじゃないですか』って。
私、今まで何回もツアーに参加しましたけど、あなたのような添乗員さんには初めて出会った。おかげさまで、孫に素敵なおもちゃを買えました。本当にありがとうございました」
6年弱にわたった添乗員という仕事を通して、自分が学んだことは、何だったのか。
ひと言では言えないが、経験した個々のエピソードの中に、なんとなくヒントがあるような気がした。忘れられない出来事、忘れられない言葉がいくつもある。同時に、「人間とは何か」とも考えさせられた。
添乗を通して、自分の芸術、美しさ、精神性を伝えたい。当時はそういう気持ちで取り組んでいた。そして今もまた、どんな仕事においても、自らの精神性を投影させることが大切なのだと感じている。
お客様をご案内しているようで、実はぼく自身が、長い時間をかけてどこかへ案内されていたのかもしれない。
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2023年6月。近所のスタバで作業していると、お年を召した女性がすぐ横に立ち止まった。
なんだろうと思って振り向くと、彼女はぼくの目をじーっと覗き込んでいた。
「あなた……旅行の?」
「え?」
「あなた以前、旅行のお仕事をされてなかった?」
「はい……。え? もしかして……」
「やっぱり……! 中村さんでしょう? えー、なんてこと! 私あなたと昔、インスブルックへ行ったのよ! 私も中村です、あなたと同じ」
「あ~! あのときの中村さん! 覚えてます! なんという……!」
それは2012年の夏のことだった。ぼくは添乗員としてなかなか良い結果を出せずにいたため、前年の秋にバルト三国へ行って以来、しばらく添乗に出してもらえずにいた。そんななか、10ヶ月ぶりの添乗が決まった。
行き先は、オーストリア西部のチロル州。アルプスに抱かれた古都、インスブルックに長期滞在する旅だ。
(もう失敗はできない。とにかくお客様に楽しんでもらえるよう全力を尽くそう)
そういう強い覚悟で臨んだツアーだった。
朝から晩までお客様のケアに必死だったが、大きなトラブルや失敗もなく順調に日数は過ぎていった。22名のグループにも和気藹々とした雰囲気が漂っていた。なかでも、中村マリコさんともう一組のご夫妻が、ぼくのことをよくかわいがってくださった。
現地での最終日、帰国の準備をしているとき、マリコさんとご夫妻がやってきて、ぼくに素敵なシャツをプレゼントしてくれた。そこには手紙も添えられていた。
「いよいよ残すところ一日となりました。中村さんの頑張りにはおばさんたちはときには心痛め、又感心しています。本当によーく毎日朝から晩まで働いて頑張りました!! お蔭様で楽しくインスブルック旅行ができました。感謝を込めてささやかなプレゼントですが、受け取ってください。サイズが合わなかったらどなたかに差し上げてくださいネ!! では、これからも身体に気をつけて」
添乗員という職業に就いて、初めてお客様からいただいたプレゼントで、本当に嬉しかったのをよく覚えている。
「どうしてこちらに?」
「今日は人に会うためたまたま来たのよ。あなたは?」
「今はこの近くに住んでいるんです」
「そうだったの。前は二子玉川の近くだったわよね。だから二子玉川へ行くとよく、あなたと会わないかなって思ってたのよ」
「そうでしたか」
「あなたが退職したあとも、ブログを読んでいたわよ。まさかこんなところでお会いするなんて、神様はいるのね」
「本当に奇跡ですねえ。11年ぶりですよ」
ぼくはインスブルックでの思い出話や、退職後に行った旅のことについて、少しだけ話をした。
「お会いできて良かったわ。写真もありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました! お身体に気をつけて。お元気で!」