noteの「サムネイルどうしよう問題」と、日々の習慣
メンバーシップを始めてから今日までの5日間、毎日長めのnoteを更新しています。「どうしてこんなに頑張っているんだろう?」と思わないでもありません。
月500円のメンバーシップの場合は、「月に3〜4本前後エッセイを更新します」という運営者も多く、それに照らし合わせれば、ぼくも本来は週1本程度の更新でも十分なはず。だから昨日までに書いた4本を、すぐに出すのではなく、一週間おきに公開すればよかったのです。もう遅いか。
昨日スタバに遊びに来てくれた編集者のまむしさんからも、そのことについて聞かれました。
こんな毎日更新のペースで3ヶ月間も書き続けるなんて、無理でしょう。だからどこかで折れるであろうことも十分承知のうえです。
だけど、それでも構わないから、「今書きたいことがあるなら、先のことは考えずに全力で書き切ろう」という気持ちでいます。やるからには普通のことはしたくない。そういう反抗心が、いつも湧き起こってくるのです。
まむしさんは、ぼくが熱っぽく語る様子に関心しながらも、どこか冷静でした。
随分といじられたけど、楽しかったらいいや。とにかく、記事の内容とか、運営方法とか、企画のエモさとかではなく、ド直球の覇気で勝負したい。計画性はゼロ。しかし、煮えたぎる熱量をここにぶつけたい。全力を尽くしていればきっと、「なんだかよくわからないけど、この人やばい」という覇気は伝わるはず。そうなったらいいな、と思っています。
さて、ここからが本題です。
毎日のようにnoteを更新していると、地味な悩みが発生します。
それは、「サムネイルどうするか問題」です。サムネイルとは、記事の見出し画像のことです。
もし話の内容に関連する写真で良いものがあれば、それをサムネイルに使えばいいのですが、いつも関連する画像が存在するとは限りません。あとは、noteユーザーであればご存知のように、「記事に合う画像を選ぶ」という便利な機能がありますね。これはnote上にストックされている写真やイラストから選べるもので、ぼくもよく使っていました。
でも、大量にある画像の中から選ぶので、いつも時間がかかっていたのです。それと、「せっかくなら自分で撮った写真を使いたい」という気持ちも生まれてきました。
そこで、です。昨日の投稿で紹介した毎朝のスクワットや5分間の掃除とは別に、ぼくは最近、小さな習慣を持つようになりました。
それは、「日々の生活の中で、サムネイルに使える写真を撮る」というものです。だけど問題は、ぼくがほとんどの日々を、家と近所のスタバの往復しかしていない、という事実です。今はどこかへ出かけることが少なく、今日ようやく、16日ぶりに電車に乗ったほど。都心に暮らしていながら、我ながらヤバい奴だと思います。
このことについてまむしさんは昨夜、
とポストされていました(笑)いや、本当にそうですよね。行くときは、海外へ行ったり、大阪から博多まで歩いて旅したりする人間なのですが、行かないときは、まったく動かないんです。やっぱり0か100かの人間です。
話が逸れました。たとえば、どこか旅行へ行けば、いくらでも綺麗な風景写真を撮れて、それを記事のサムネイルに使えるじゃないですか。だけど今のぼくは、いつも同じ道の往復しかしておらず、極めて狭い範囲で生活しているわけです。至って普通の街です。そういう状況だから、「綺麗な写真を撮ろう」と思ったらなかなか難しい。
だけど、そんな一見変わり映えのしない毎日の中にも、ちゃんと変化はあるのです。あるいは、見ていたようで見ていなかったものが、たくさんあるのです。
最近であれば、「新緑が鮮やかだなあ」とか、「つつじが綺麗だなあ」とか、「あの赤い花の咲いている木は何ていう名前かなあ」とか、「このお宅はいろんな花が植えられていて素敵だなあ」とか(だいたい植物説)、そんなことを思いながら毎朝15分ほどかけて、スタバに向かって歩いていました。
そしたら、「こういうわずかにでも心が動いたものを、撮っていけばいいじゃないか」と、思えたんですね。すると、楽しくなってきました。いつもと変わらない道の中で、今日はどんな「違い」を見つけられるかなって。
まむしさんが言うように、ぼくは確かに半径約1キロ圏内で生活をしています。世界全体から考えたら、ものすごくミクロな世界です。だけどこのミクロな世界、ありふれた日常の中にも、無限の宇宙が広がっているんじゃないか、と感じてきたんです。
物理学って、宇宙規模のとてつもなく大きなスケールのものから、量子レベルのとてつもなく小さなスケールのものまで扱うじゃないですか。
そしたら旅にも、「遠くへ行くこと」「いつもと異なる場所へ行くこと」だけじゃなく、反対の方向性を持った考え方があってもいいのではないかと感じてきました。たとえ「いつもと同じ場所」にいても、どこかに「旅の要素」は潜んでいるのではないか。自分でも何を言っているのかよくわかりません。
でもそういう視点で同じ道を歩いてみると、いろんな発見があるものです。これまで素通りしていた公園に立ち寄ってみて、マジマジと遊具を眺めてみたり、気にも留めなかった町内の掲示板の張り紙を真剣に読んでみたり。
「この犬、ウインクしてる。かわいい」
いや、何やってんだろう、って感じですけど、こちとらこの狭い範囲で何か見つけられないだろうかと必死なわけです。写真を撮るのに恥ずかしがっている場合ではありません。
街の外に出ていつもと異なるものを探すのは簡単なんです。だけどいつもと同じ場所で異なるものを探すとなると、いろんな角度から見ないと何も掘り出せません。でもエッセイだってそういう性質のものです。優れたエッセイには、他の人にはない視点や切り口があります。特殊な出来事や体験を取り上げるだけではなく、多くの人が経験していることのなかで、ハッとする視点や気付きを与えてくれます。だからきっと、こうやって意識的にモノを見ようとする習慣も、エッセイの訓練になるはずです。知らんけど。
そんなことを思いながら、ぼくはここ数日、花の写真を撮ったり、鮮やかなブルーのマンションを撮ったり、公園の遊具を撮ったりしています。まむしさんに写真を見せたらだいぶ引いていましたが、いいんです。ポストがいちいちおもしろかったです。
こういう写真の考え方について、ぼくにヒントを与えてくれた方がいます。
写真家の森山大道さんです。2016年に、雑誌『BRUTUS』で彼の特集が組まれました。ぼくはその号で、初めて森山大道さんのことを知りました。彼は何の変哲もなさそうな街角のスナップ写真を大量に撮っていました。正直、「これの何がいいんだろう?」とさっぱりわかりませんでした。こんな写真を撮る人なのに、日本を代表する写真家というから、なお衝撃を受けました。
でも、彼の写真をたくさん見ているうちに、徐々に、不思議と「良いな」と感じるようになってきたんです。なぜかはわかりません。だけど彼が撮らなかったら、誰も撮らなかったものだ、とも思いました。そして彼は、「気になるものがあったら、迷わず撮れ!」と言いました。その言葉にぼくは背中を押されました。
「一見綺麗なもの」だけが美しいのではありません。ほとんどの対象物には、人間の営みが含まれていて、あらゆる形には、何かしらの「意図」があります。公園の遊具の犬も、設計した人がどこかの時点で「目はウインクにしよう」と考えた。そう思うとなんだか愛おしいです。
だから、少しでも気になるものがあったら、迷わず撮る。「それに何の意味があるの?」なんて考えず。そしてどう思われようと、ぼくは堂々とサムネイルに使おうと思うのです。
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