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インタビューの可能性 〜あるミャンマー人夫妻とのエピソード〜

※2021年10月7日追記
この記事で紹介したNHKスペシャルのミャンマー特集が、栄誉ある「新聞協会賞」を受賞しました。

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今年4月に放送されたNHKスペシャル『緊迫ミャンマー 市民たちのデジタル・レジスタンス』は国内外で大きな反響を呼び、優れた番組に贈られる「月間ギャラクシー賞」を受賞した。しかし、まだまだミャンマーの大変な事態は続いていて、8月22日(日)には、NHKスペシャルの第2弾として『混迷ミャンマー 軍弾圧の闇に迫る』が放送される予定だ。

4月の放送で映し出されていたのは、ネットやSNSを通して日本から支援を続けるミャンマー人、ウィンチョさんとマティダさんご夫妻の姿だった。彼らの活動は、間違いなくミャンマーに少なくない影響を与えている。そう感じる内容だった。

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「祖国のために」という一心で闘う彼らの覚悟に胸を打たれつつ、ぼくは感慨深い気持ちになった。

(あの日、ぼくが彼らに取材していなければ、もしかしたらこの番組は成立していなかったかもしれない)

いち会社員に過ぎなかった6年前、衝動に駆られて個人ブログに書いたインタビュー記事によって、現在のミャンマー情勢に多少なりとも影響を与えているとしたら──。

番組が終わっても、不思議な興奮が続いていた。ぼくはこのミャンマー人夫妻との間に起きた出来事を通して、「書くこと」の大切さについて、インタビューの可能性について、改めて知ることになった。無名の書き手にも、社会を動かす可能性が秘められているし、少なくとも周囲の人間や自分自身を思わぬ方向に導くくらいの可能性は、十分に備わっている。

少し長くなるが、ぼくと彼らとの間に何が起こったのか、ご紹介したい。

スーチーさんの盟友が二子新地でラーメンを作っていた

田園都市線の二子新地に住んでいた頃、仕事帰りによく駅前の「大陸麺本舗」で晩ご飯を食べていた。このお店では日本語ペラペラのミャンマー人夫妻が切り盛りしていて、何度も通ううちに親しくなっていった。

あるとき、ふとレジの横に飾られていた写真が気になった。

(あれって、アウンサン・スーチーさんだよな・・・)

ミャンマーの国民的英雄と、この店のおばちゃんが一緒に写っている写真だった。

「この写真は何ですか? アウンサン・スーチーさんじゃないですか?」

お会計時に聞いてみた。

「そうです。2013年にスーチーさんが来日したときの写真です」

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「なぜ、奥さんが一緒に写っているんですか?」

「私は、スーチーさんと一緒に闘ってきたんです」

「え?」

このときは何を言っているのか、意味がよくわからなかった。

また、2015年11月のとある日、会計時にこんなことを言われた。

「明日は大事な選挙の日です。応援しててください」

「何の選挙ですか?」

「ミャンマーの総選挙です。スーチーさんの最後のチャンスです」

ぼくはミャンマーについて、全くもって何も知らなかったのだが、この国では長く軍事政権が続いていた。与党が負けることはなかった。しかし、2015年の選挙は、少し様子が違った。

その選挙は、日本でも大きく取り上げられた。スーチー党首率いる最大野党、国民民主連盟(NLD)の勝利が確定的で、50年以上続いた軍事政権がついに終焉を迎えるかもしれない、と話題になっていた。これは歴史的な出来事だった。

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このニュースを観た瞬間、ぼくはお店に電話をかけた。予約する目的以外で飲食店に電話をかけたのは初めてのことだった。今思えば、どうしてそんなに勢いよく電話をかけられたのかわからないが、すべてはここから始まった。

「もしもし、いつもお店に通っている中村ですが、スーチーさん、やりましたね! おめでとうございます!」

「え? ありがとうございます!」

「あとでお店に行くので、インタビューさせてもらえませんか? スーチーさんとの関係について、お聞きしたいです」

「・・・わかりました。今日の17時頃来てもらえますか」

そして店主のウィンチョさんと奥さんのマティダさんから、衝撃的なエピソードを聞かされることになった。彼らはスーチーさんの盟友とも呼べる人物だったのだ。

スーチーさんとの過去

「マティダさんとスーチーさんの関係は、いつからなんですか?」

「最初に会ったのは、私が中学生くらいのとき。私の母が、スーチーさんのお母さんの後輩だったんです。それで、私もよくスーチーさんの家に行きました。一緒に政治活動をしたのは、1988年のときです。ミャンマーでは1962年から軍事政権が続いていましたが、1988年に大きな学生運動があったんです。学生運動のきっかけになったのは、治安部隊の発砲で数人の学生が殺されてしまった事件があったからで、その殺されたうちのひとりが、主人の友人だったんです。

主人と私は、大学の先輩後輩でした。そのときはまだ付き合ってもいませんよ。一緒に学生運動をしていただけです。それで、ちょうどその頃、スーチーさんがイギリスから帰ってきたんです」

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「スーチーさんはイギリスに住んでいたんですか?」

「そうです。イギリス人と結婚していたからです。でも、スーチーさんのお母さんの体調が悪くなったので、看護のためミャンマーに帰ってきたんです。だから、学生運動をしていた私たちは、スーチーさんのところへ行って、『私たちのリーダーになってください』って言いに行ったんです」

「マティダさん、立役者じゃないですか。でもちょっと待ってください。スーチーさんは当時から有名な人だったんですか?」

「スーチーさんのお父さんは、日本でいえば坂本龍馬のような人ですよ。ビルマ(現ミャンマー)の独立運動を主導した、『ビルマ建国の父』です」

「なるほど、だからスーチーさんも影響力のある人だったんだ」

「それでスーチーさんは、1988年8月26日に50万人の前で演説を行いました。さらに1990年の総選挙に向けて、国民民主連盟(NLD)の結党に加わりますが、スーチーさんは軟禁されてしまいます。1990年の総選挙では、NLDが81%で大勝したにもかかわらず、軍政側は政権を譲らなかったんです」

「選挙に負けたのに政権を譲らないなんて、そんなことがありえるんですか」

「ひどいでしょう。だから今回だって、スーチーさんが勝ったけど、軍党が何をするかわからないですよ。『今回は選挙結果を受け入れる』と言っていますが、油断できません」

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命の恩人は、日本の「お父さん」

「マティダさんは、それからどうしたんですか」

「私も2回、逮捕されました。それぞれ2ヶ月間と1ヶ月間、出してもらえませんでした。政治運動していたからです。暴力も受けましたが、何を聞かれてもわかりません、わかりませんって言い続けました」

「日本に来たのは、どういうきっかけですか?」

「1991年のあるとき、ビルマの日本大使館から電話がかかってきたんです。不思議に思いました。どうして日本大使館がうちの電話番号を知っているんだろうって。実は、ビルマに駐在していた松下電器の岩見さんという方と仲良くなって、私のことをすごくかわいがってくれたんです。その人が日本に帰ったあと、私の命の危険を心配して、日本大使館にお願いしてくれたんです。私が日本に来れるようにって」

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「命の恩人ですね」

「そうです。だから『お父さん』と呼んでいます。最初は大阪にあった『お父さん』の家に住まわせてもらっていたんですけど、彼は仕事で日中いない、奥さんは日本語しかわからない、少し英語ができる学生の娘さんもほとんど家にいない、私も日本語まったくわからない。だから全然話ができませんでした。少し経ってから、私は東京で暮らすことになりました。東京には他にもビルマからやってきた人たちがいたから。『お父さん』は2年前に亡くなってしまったんです。今回のスーチーさんの勝利のこと、伝えたいです」

「ご主人のウィンチョさんとは、東京で再会したんですか?」

「そうです。実は私が日本に来る少し前から、主人は日本に来ていました。もともとヤンゴン国際空港でエンジニアとして働いていましたが、その空港建設のプロジェクトは日本の企業が関わっていました。だからその関係で、栃木県にやってきたんです。あるとき、東京で偶然再会して、その3日後にプロポーズされました(笑)」

「運命的ですね(笑)」

「しばらく別々の仕事をしながら生活していましたが、2010年にこのお店がオープンして、今に至ります。ちなみに、NLDの日本支部を作ったのは主人なんです」

「そうなんですか。あの写真の件ですが、2013年にスーチーさんと日本で再会したときは、嬉しかったでしょうね。向こうもマティダさんのこと、わかったんですか?」

「24年ぶりの再会でしたけど、向こうもわかっていました。私が日本にいることも知っていましたし。東京大学で会議があった日に会えたんですけど、写真のときは、学生とか報道陣とかたくさんいました。でもその日の朝、ラッキーなことに、2人きりで会えたんです。10分か15分くらい話せました」

日本からしかできないことを

「マティダさんたちは、ミャンマーには帰らないんですか?」

「帰りたいですが、今帰っても、また捕まってしまいますから」

「そうか。過去のことがあるから」

「でも、スーチーさんを応援するために、日本からしかできないことをやっています。たとえばミャンマーにいても、軍事政権による情報統制がなされて、正しい情報がわからなかったりします。むしろ日本にいた方が、ネットを通じてミャンマーの情報がわかるんです。だからそうした情報を、ミャンマー国内にいる同志たちに伝えたりしています。また、日本の政治のことを伝えたりもします。『日本ではこうしているよ』って。

それから、ミャンマーの若い子たちに政治への関心を持ってもらわないといけないから、Facebookでコミュニティを作って、そこに情報を送ったり。あるいは日本の外務省やメディアに対して情報提供を行ったりもします。時事通信社の人からよく電話かかってきますよ」

「なるほど。でもスーチーさんが無事に政権を取って、条件が整えば、きっとミャンマーに帰れますね」

「はい。でも、日本にもたくさんの恩がありますから、完全にミャンマーで暮らすというよりは、日本とミャンマーの架け橋のような存在になりたいですね。とにかく、今は一刻も早く、ミャンマーが平和な国になってほしいと願っています」

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思いもよらぬ反響

インタビューを終え、ぼくはすぐに上記の話を、自分のブログで紹介した。すると後日、思わぬ反響があったのだ。

再度お店を訪れたとき、マティダさんに言われた。

「先日、中村さんが私たちのことをブログで紹介してくれたでしょう?」

「うん」

「そしたらこの前、あのブログがきっかけで京都に住んでいる方から連絡があって、今度会うことになったんですよ。京都から会いに来てくれるんです。本当にありがとうございます」

「えー!それは嬉しいですね〜」

「それだけじゃないよ」

と言ったのは、厨房にいたご主人のウィンチョさん。棚から書類を取り出し、ぼくに見せた。

「NHKの人が突然やってきて、『この記事で知りました。取材させてください』って言ってきたんですよ。プリントアウトした、中村さんの記事を持ってきて」

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その「書類」は、紛れもなくぼくのブログだった。思わぬ人が、見ているものだ。

NHKのドキュメンタリー番組に発展。そして突然の別れ

後日訪問したときには、さらに発展していた。

「あれからまた、すごいんですよ。東京新聞の人が取材に来たり、この前は学校で講演もしたんですよ」

「ええ? すごいじゃないですか、おめでとう!」

「NHKの人も、東京新聞の人も、学校の先生も、みーんな中村さんが書いてくれたブログを印刷して持ってくるんです!あっはっは!」

「ほんとに? すごい反響だね〜」

「そうですよ〜。中村さんが書いてくれたおかげです」

極めつけは、NHKで彼らの特集番組が制作されたことだ。

それを知ったのは2016年3月のことだった。またいつものようにお店でご飯を食べていたら、2階から男性が降りてきて、突然名刺を渡された。

「中村さん、ですよね?」

「え?」

「私、自由が丘の玉川聖学院で教員をしております、高橋と申します」

「・・・はい」

「中村さんが書かれた記事のおかげで、生徒たちをミャンマーに連れて行けることになりました」

「・・・はい?」

高橋先生(※現在は新渡戸文化学園に勤務)は、生徒たちを海外学習のために、いつかミャンマーに連れて行きたいと、数年前から考えていたという。しかし、現地の関係者と繋いでくれる人がいないので、それまで実現できずにいた。

それが、たまたまぼくの書いた記事を読み、ウィンチョさんに連絡をしてみたところ、協力してくれることになり、ミャンマー行きが決まったというのだ。

「彼らが現地のコーディネートしてくださることになり、普通ではありえないようなプログラムをツアーに加えることができました。ご夫妻にも先日我が校で講演していただいて・・・」

ウィンチョさんご夫妻にとっても、25年ぶりの祖国ミャンマーへの一時帰国だった。

それだけではない。この一連の話が、NHKでドキュメンタリー番組として放送されることになったのだ。高橋先生に連れられて2階に上がったら、NHKのディレクターさんがまさに打ち合わせ中で、その方にも「あの記事を書いてくれて、ありがとうございました」と名刺を渡された。

「中村さんのおかげで、ここまできたんですよ。本当に、ありがとうございました」

マティダさんからそう言われて、帰り際、ちょっと泣きそうになった。文章に熱量を込めると、奇跡が起こるようだ。

その番組も、感銘を受ける内容だった。

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気がつけば、「ぼくもいつかミャンマーへ行ってみたい」と思うようになっていた。ご夫妻と出会ってから、そういう想いは心の片隅にあった。

しかし、2016年10月、突然彼らと別れることになった。

「今月末で、お店を辞めることになりました」

「え!?」

「私たちはしばらく東京のどこかで働くから、また会いましょう。今までありがとうございました」

あまりに急な出来事だった。

彼らがいなくなったあとも、別の新しい店員によってお店は残った。しかしお店は、人が変わると、まったく別のお店になってしまうのだと知った。ぼくは2、3回訪れて、「違う」と感じて、それきり通わなくなっていまった。

仕事帰り、毎日のように接していたミャンマー人夫妻がいなくなり、とても淋しくなった。

だけど、お店の最終日にお別れの挨拶をしたとき、ウィンチョさんはひとつ、気になることを言い残した。

「今じゃないけど、中村さんに、会ってほしい大学生がいるんだ。その子と会って、またブログに書いてほしい」

「え?どういうこと?」

「また話しますから。よろしくお願いします」

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新たな展開

2017年の年明けとともにフリーランスになったぼくは、1月10日から、東京・日本橋を出発し、京都・大阪まで600kmを徒歩で旅した。

その旅の出発前夜、ぼくは準備よりも優先して、2人の学生と会っていた。高橋先生も同席していた。

彼女たちこそ、ミャンマー人夫妻から「活動を応援してあげてほしい」と託された学生たちだった。

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当時、ICU(国際基督教大学)3年生だった山中美有さん(中央)と、ともに活動していた玉川聖学院 高等部3年生のS.N.さん(左)だ。(※ご本人の希望によりイニシャル表記にしています)

山中さんも玉川聖学院の卒業生で、同校が2016年3月に開催したスタディーツアーで初めてミャンマーを訪れたという。

「ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダ(寺院)で出会った日本語を流暢に話すミャンマー人女性をはじめ、日本に関心のある多くの人々が経済的理由で一度も日本を訪れたことがないと知り、衝撃を受けました。この体験をもとに、ミャンマーから学生を招致し、ICUで『ミャンマーと日本の未来のためのユース会議』を開催するというアイデアが生まれました」

山中さんらは「ミャンマーと日本をつなぐ旅」と題して、教育に問題意識を持つミャンマーの学生4名を日本に招待し、教育をテーマにしたスタディーツアーを開催しようとしていた。

このプロジェクトは、ICU同窓会が主催するドリーム・コンペティションで「デーヴィッド・W・ヴィクナー社会貢献賞」を受賞し、賞金として2000ドルを獲得した。

しかし、現地学生4名を日本に招待するにはまだまだ費用が足りないので、地道に企画書を配り協賛者を募るほか、近くクラウドファンディングでの資金調達にも挑戦する予定だという。

「中村さんも学生時代に、企業からスポンサーを集めてヨーロッパを自転車で旅したと伺いました。そのときのお話を聞かせていただけませんか」

ぼくは自身の経験をもとに、協賛を集めることの厳しさ、大変さ、そしてそれを上回るやりがいについて彼女たちに伝えた。

真剣な目つきで話を聞いてくれる2人に、ぼくは嬉しくなった。

衝動で書いたインタビュー記事がきっかけで、高橋先生はウィンチョさんたちと出会い、ミャンマーのスタディーツアーを企画した。そしてそれに参加した学生たちが、また新しい波を起こそうとしている。自分の知らない領域にまで続いていきそうな、その不思議な連鎖に感動していた。

山中さんは言った。

「今年の3月にも、玉川聖学院の『ミャンマーふれあいの旅』があるんですけど、私も一部同行して、そこで日本に招待する学生4名を決める面接を行う予定でいます」

「え、じゃあまたミャンマーへ行くんだ」

「はい。就活の関係もあり、短期間の滞在になってしまうのですが」

就活で忙しいなか、たった3日間の滞在(しかも観光ではない)のためにミャンマーへ行く。その決意だけでも、彼女の本気度が伝わってきた。

この話を聞いて、ぼくも感化されていた。純粋な夢や目標を持って本気で活動している人を前にすると、気持ちを動かされる。果たして自分も、彼女たちほど真剣に日々を生きているだろうかと。

そして、彼女たちを応援するのであれば、ぼくは自分の目でミャンマーを見なければいけないと思った。ミャンマーのことを知らない自分が活動について口出しできるはずがない。「百聞は一見に如かず」だ。

とはいえ、このスタディーツアーは、玉川聖学院の学生や卒業生たちのためのもの。部外者のぼくが行くのも変な話だ。

しかしそのとき、思わず「いいなあ、ミャンマー行きたくなったなあ」とつぶやくと、

「本当ですか!? 嬉しいです!」と言われたどころか、同席していた高橋先生までも、

「一緒に行きましょう!」と背中を押してくださった。なんだなんだ? ミャンマー行きが、急に現実味を帯びてきた。

東海道五十三次を歩き終えて、2月に改めて考えていたとき、突然、マティダさんから電話がかかってきた。

「マティダさん、久しぶりじゃないですか!」

「中村さんがミャンマーに行けるかもしれないと、彼女たちから聞きました。私も一緒に行くから、安心してください! 現地のホテルも飛行機の予約も任せてください! 私が車でいろんなところ見せてあげるから。ね!? 何にも心配いらないです! 私は中村さんのような人に、ミャンマーを知ってもらって、いろんな人に伝えてほしいんです。だから、ミャンマー行きましょう!」

そこで覚悟が決まった。かつては軍事政権に追われた彼女も、現在のスーチー政権のもとでは水を得た魚。そんな彼女がアテンドしてくれるなど、こんな貴重な機会は二度とないかもしれない。

「・・・行きます!よろしくお願いします!」

関心のあった「教育」への、思わぬつながり

「中村さんに会ってから、彼女たち目の色が変わりましたよ」

そう教えてくれたのは、高橋先生だった。

実際、二人の猛烈な行動力には、ぼくも驚かされた。企画書の作成に取りかかり、いろいろな人に会いに行き、企画への協力を求めていた。それをFacebookページで日々報告していた。

「企画書を直してみたのでチェックしていただけますか?」「HPを作ろうと思うのですが、アドバイスいただけませんか?」と、とても学生とは思えないスピード感で、どんどんぶつかってきてくれる。ぼくも真剣に向き合わざるを得ない。高校時代、こんなに真面目で行動力のある同級生がいただろうか。

このことに関連して、今回のミャンマー訪問で密かに楽しみにしていたのが、教育の現場を見られることだった。

ミャンマー行きが決まり、ぼくは二度、玉川聖学院を訪問した。高橋先生がセッティングした、ミャンマーに関する講演会を聴くためだった。

その際も、学生たちの学ぶ意欲の高さに驚いた。ぼくが通っていた高校では、こんな光景を見たことがなかった。どのような教育をしたら、こうした生徒たちが増えるのだろうか。

会社員時代は海外添乗員として、6年弱にわたりシニアの方々を旅行にご案内していたが、本音を言えば、もっと若い世代、日本の未来を作っていく人たちに、旅の魅力を伝えたいとずっと思っていた。もちろん今回はただの付き添いだけど、教育に興味を持つ人間として、学生たちがどのように旅を楽しみ、何を吸収するのか、近くで見てみたかった。

「教育に携わりたい」という自分自身の想いが、まさかこのようなカタチで実現するとは夢にも思わなかった。人生はどこで何が起こるかわからないし、何が繋がるかわからない。ひとつひとつのことにきちんと向き合っていると、良いことがあるかもしれない。

あの「一本の電話」が、ぼくがミャンマーへ行く伏線にもなっていた。「お金にならないから」とインタビューをしなかったら、電話をかけていなかったら、何も起こらなかった。損得勘定では計れない価値がある。衝動に突き動かされて記事を書いたら、今度は書いた記事によって動かされた人たちが、ぼくの未来を動かしてくれた。

行動する理由は、そのときにわからなくてもいい。なんとなくやりたいこと、興味を持ったもの、直感、衝動、そういうものを大切にしていたら、思わぬ角度から人生が開けてくる。理由は時間が経ってからわかることもある。

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ミャンマーへ

2017年3月、玉川聖学院の学生たち、高橋先生、そしてマティダさんとともにミャンマーへやってきた。

最大都市ヤンゴン、首都ネピドー、世界遺産のバガン遺跡を訪れた。

旅の詳細は割愛するが、印象深い出来事や考えさせられる出来事は多々あり、実際に訪ねて良かったと思った。教育の現場を垣間見られたことも勉強になったし、山中さんらとともにヤンゴンで飛び込み営業をしたり、日本に招待する学生の面接に立ち会ったりと、活動をサポートできたことも良い思い出だ。彼女たちの企画は朝日新聞で取り上げられ、実際に最後までやり遂げることもできた。

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首都ネピドーへ向かう途中、マティダさんの知人がいるということでバゴー州の州議会を訪問した。

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そこで州議長らと面会する機会があったのだが、同席したパ・パ・ハン議員は、マティダさん曰く「いずれ第二のスーチーさんになるかもしれない」と期待されている人物だった。頭脳明晰で人柄も良く、スマホケースにくまモンのシールを貼っていたのを覚えている。

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2021年2月1日、ミャンマーで国軍によるクーデターが起きた。そこから現在に至るまで多数の死者が出て、混乱が続いている。

その2月1日の夜、スーチーさんらとともに真っ先に捕まったひとりが、あのパ・パ・ハン議員だった。

たまたま読んでいたBBCの記事で、「地方議員パ・パ・ハン氏が拘束される様子は、彼女の夫がフェイスブックでライブ動画を流した」という一文を読んで衝撃が走った。直接会って食事を共にした方が、危険分子と見なされ、捕まってしまったのだ。

ヤンゴンで出会った、モン族出身のティントゥーアンくんも、今どうしているだろうか。「ミャンマーで出会った京大生の生き方に衝撃を受け、それ以来日本人をリスペクトしている」と話していた。国を想う気持ちが人一倍強い青年だった。

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現在も厳しい情報統制がなされていて、ミャンマー市民は今どのように生活しているのか、よくわからない部分が多い。ぼくは現地を訪ね、様々なミャンマー人と交流した分、ミャンマー情勢を身近に感じている。

インタビューの可能性、文章の可能性

ミャンマー訪問から4年が経つが、当時の学生たちや高橋先生との交流は今も続いている。ウィンチョさん、マティダさんとはしばらく連絡を取っていなかったが、今年4月放送のNHKスペシャルによって、テレビ越しに彼らの「今」を知ることができた。

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そしてその放送後、また思わぬ反響がぼくのもとにあったのだ。

インド・スパイス料理研究家として著書も多い香取薫さんという方から、突然ご連絡をいただいた。

NHKスペシャルを観て、香取さんはミャンマーの現状を知った。ウィンチョさんたちに寄付をしたいが、NHKは個人情報ということで連絡先を教えてくれない。

「寄付金は手違いで軍側に渡ってしまうこともあると聞きますのでウィンチョさんに手渡し出来ればと数人の友人と話しています」

そんななかでぼくの投稿を見つけて、「現在彼らが働いているお店を教えていただけないでしょうか」と聞いてくださったのだ。ぼくはすぐにウィンチョさんに電話し、事情を説明した。OKの返事をいただけたので、連絡先を共有した。

「寄付したいので連絡先を教えてほしい」という連絡が、また翌日も別の方から届いた。

そして数日後、ウィンチョさんから電話があった。

「今日も中村さんが紹介してくれた方が、集めた寄付金を持ってきてくれました。合わせて50万円以上が集まりました。これでたくさんの子たちを救えます。難民として逃げている人たちの食費が月5000円かかるから、本当に感謝してます」

ぼくの行動次第で、救える命があると思った。ウィンチョさんたちは今も日本から、彼らにできるやり方で、闘いを続けている。ぼくも引き続き、陰ながらサポートしていきたいし、こうした発信によってミャンマーに関心を持つ人を増やしていきたい。一日でも早く、ミャンマーに平穏な日々が戻ることを願っている。

その後もウィンチョさんたちの活動は様々なメディアで取り上げられている。(下はPHP研究所の月刊誌『Voice』7月号)

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6年前、「直接お話を聞いてみたい」という衝動に駆られて書いた、たった一本のインタビュー記事が、思わぬところへと羽ばたいていき、この長文を持ってしても語り切れないほどの物語を、ぼくにもたらしてくれた。当時、ぼくはまだ会社員で、趣味のブログを書いていただけの存在だった。そんな状況でも、ここまでのことが起きたのだから、「書くこと」の可能性は、凄まじいのである。

文章は、エネルギーだ。ライターであろうとなかろうと、自分の身に心動かされる出来事が起きたら、ぜひ書いてみてほしい。そこから何が起こるかはわからないが、何かが起こるかもしれない。

※お読みいただきありがとうございました。8月22日(日)21時から放送のNHKスペシャル『混迷ミャンマー 軍弾圧の闇に迫る』をぜひご覧ください。ウィンチョさん、マティダさんも出演します。

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※ウィンチョさんは、メディアによってはウィンチョウさんと表記されています。本noteではウィンチョさんとしました。

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中村洋太
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