「下総の小江戸」佐原と伊能忠敬
昨日、思い立って千葉県香取市の佐原(さわら)へ行ってきた。
江戸時代に初めて実測による日本地図を作成し、国土の形状と世界における日本の位置を示した伊能忠敬が暮らした町で、伊能忠敬記念館のほか、彼が17歳から50歳まで暮らした旧宅がある。
また、佐原は利根川を利用した水運で栄えた商人の町でもあり、「下総の小江戸」と称される小野川沿いの美しい町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
都心からだと、成田のさらに奥なので、交通の便があまり良くない。しかし、東京駅から直通で佐原駅まで行ける高速バスがあり、それに乗れば電車よりも早く行けることがわかった。
結論から言うと、佐原の町並みは期待していた以上に素晴らしく、訪れる価値は大いにあった。10時半頃に佐原駅に着き、帰りのバスは17時43分発だったので、現地で7時間も過ごすことができた。
ぼくは中学時代から地図帳を眺めるのが好きだったから、歴史上の人物の中でも、伊能忠敬のことは特別視していた。
大学時代には、一冊のコンパクト日本地図帳を持って、自転車旅に出た。横須賀から九州まで、本当に地図通りに道がつながっているのか確かめてみたい。そんな欲求があった。
13日目で九州に着き、実際に地図の正しさを肌で感じたとき、伊能忠敬に対するリスペクトが強まった。
もともと千葉県の九十九里の生まれだった忠敬は、17歳のときに婿養子として伊能家にやってきた。その後、伊能家の当主となり、49歳で引退するまでの20年間で伊能家の資産を3倍にしたらしい。
この時代、普通の人間ならここから隠居生活を送っただろう。しかし彼は50歳にして江戸に出てきて、19歳年下の高橋至時に入門し、天文歴学を学んだ。それまでに自分でも様々な本を読んで基礎を勉強していたそうだ。
おそらく佐原の土地柄もあったのだろう。水運の経由地として江戸とのつながりが切れることはないから、情報はすぐに入ってくる。おまけに商人の町で、自由な雰囲気があった(と思われる)。
当時、忠敬が通う暦局(国の暦学を作成する最高機関)では、暦を正確に予想するために必要な、「正確な地球の大きさ」が話題となっていた。もちろん西洋でも地球の大きさは推定されていたが、どうも誤差があるようだった。忠敬は、緯度1度分の正確な距離がわかれば、そこから地球の大きさを算出できると考えた。
最初は、居住していた深川から浅草までの距離を測定して、緯度1度分の距離を求めようとしたのだが、高橋至時からは「深川から浅草まででは短すぎる。少なくとも江戸から蝦夷地(北海道)くらいまでの距離を測らないと、正確な数値は得られない」と指摘されてしまう。
そこで目をつけたのが、地図の作成だった。この頃、蝦夷地にはたびたびロシア人が来るようになっていて、幕府にとって脅威だった。幕府は、蝦夷地の正確な地図が欲しがった。その地図作りの名目で、高橋至時と忠敬は東北と蝦夷地の測量に出かけられることになった。彼が55歳のときだった。そしてこのとき、緯度1度分の距離も測ることができた。
地球の正確な大きさを知ることと、日本の正確な形を知ること。忠敬にとってどちらがより興味のあることなのかはわからないが、まだ蝦夷地の正確な地図がなかった時代、自らの手と足で正確な形を示すことには強い好奇心が湧いたことだろう。
第1〜4次測量の成果に幕府は驚き、第5次測量以降は幕府が資金を出すようになった。逆に言えば、それまではほとんどを伊能忠敬の私財で賄っていたようだ。
ぼくが会社を辞めて、最初にやったのが東京から京都・大阪まで歩く旅だった。これは仕事ではなかったけど、フリーランスとして道を開くには、自己投資をしてでもおもしろいことをやらないといけないと思っていた。だから忠敬も最初は自腹で測量していたと知れて、なんだか勇気が湧いた。もちろん彼にとっては、「道を開くために」みたいな気持ちというよりは、ただワクワクする好奇心に従っただけなのだろうが。でもそんな生き方にぼくも憧れる。
記念館にいたら、幸運にもガイドツアーに参加できて、理解を深めることができた。
忠敬の測量で驚いたのは、誤差を補正するための「交会法」というやり方だった。ただA地点からB地点の距離と角度を測定するだけでなく、たとえば富士山のような目印になる山があれば、A地点と富士山の角度、B地点と富士山の角度も計測しておく。それによって、地図を描く際のズレを減らせる。これは賢い。忠敬の地図には、その交会法の形跡もちゃんと残されていて、なるほどな〜と深く唸ったのだった。
そのほか、町並みの船めぐり、鮨処美好、珈琲玉澤、香取神宮など、いろいろ見られて良かった。
毎年7月と10月に行われる佐原の大祭は「日本三大囃子」のひとつであり、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている。ちょうど今週末に開催されるので、時間のある方はぜひ行ってみてほしい。山車も迫力があった。