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倉橋由美子『交歓』を再読する

最初にこの小説を読んだのは私が17歳か18歳の頃で、通っていた高校の図書館の蔵書として書架にあったものを何とはなしに手にとった。
その高校を卒業してからもずっとこの小説のことが気になっていたが、再読する機会は私が45歳になるまで訪れなかった。
最初に読んだころに私の身の回りにあったのは親指シフト方式のワードプロセッサ専用機だけだった。
この小説に出てくるコンピュータやネットワークの用語について、意味がわからないながらも強烈にあこがれた。
半ばサイエンスフィクションとして読んでいた。
いまになってみると用語の使われ方に不自然なところがない。
作者の倉橋由美子はコンピュータやネットワークが好きで自分もよく使っていたのだろうか。
私が45歳の現在に読んでいる『交歓』は巻末の(お断り)に、「本書は1993年に新潮社より発刊された文庫を底本としております」とある。
ということは、私が10代の当時に読んだ『交歓』は新刊だったのではないだろうか。
最初に読んだのは1991年かそこらのことだ。
この小説に出てくる固有名詞はわからないものだらけで、男女の機微や、人の感情の動き方にも理解できる点は当時ほとんどなかったと思う。
にもかかわらず、一読しただけでこの小説を数十年も心に思い続けたのはどうしてだろう。
いつかこの小説に出てくるオリヴィエ・メシアンの音楽を聴こうと心に誓いさえした。
この小説には外国語がカタカナ化せずに多用されているが、当時はそれらも読めないうえに、例えば茸の料理の話題でジョン・ケージが出てくる理由なども、教養がないのでわからず、簡単にインターネットで検索できる環境でもなかった。
ジョン・ケージのプリペアドピアノについても、長い間ピアノロールと混同していた。
翻って今は、分からないことは調べられるし、外国語についてもそうだ。
人間と人間の関係のことも想像がつくようになった。
漢籍についての記述に関しては今も昔も、わからないまま通り過ぎることができる。
これが少し不思議なのだが、おそらく漢字の字面でわかったような気になっているのだろう。
それにしても、この小説に出てくる桂子さんという人は怪物だ。
桂子さんの魅力に惹かれている他の登場人物と同じように、私も桂子さんをずっと見ていたいと思ってしまう。
倉橋由美子の著作は他に『パルタイ』なども読んだはずだが、思い出すことは難しい。
10代のころには40歳の桂子さんを大人だなあと思っていた。
いま自分が桂子さんより歳をとってみて、年齢よりも人間としての成熟が人を大人にするのだなと感じている。
地位や名誉を別にしても、桂子さんには追いつけない。

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