やさしくなりたい/することへのモヤモヤと種を撒くこと
僕がどうも人に優しくできないのは、
あまり自分に自信がないことと、
長いこといろんな場面で人に従順でいすぎたから。
何かしら表現の世界で生きたいと、無力ながらずっと思っていた。
そう思って働こうとしたいくつかの場所は、あまり人格を
育むのに良い場所ではなかったと思っている。(そういえば
少し前にある会社の社長がパワハラで訴えられたことがあったけど、
ちょっとだけそこで働いていたこともある)
ものすごく高圧的な物言いをされたり、殴られたり、
理不尽な理由で職場を離れたり、あまり人間として尊重されて
きた事がないと思っている。しかしとても従順であった。
世の中が奪わなければ与えられない、と思い出したのは
そんな理由から。これ以上奪われては本当に死んでしまう。
そう思った時に初めて、NOと言えた。
それで相手がそれ以上入り込まなかった。
その瞬間に"尊重された"と感じたことを僕は今でも忘れていない。
それ以来ずっと主張しているような気がする。要は怖いのだ。
高圧的な物言いに怯えたり、人として尊重されない事が。
カメラを持つということもそう。
本当は作品を通して人と関わる事が全てではない。
けれども能無しと思われることはもっと怖い。
だからまた、手にもってしまうという、そういう側面もある。
しかしそういうやり方を繰り返していくとどこかで、
とても自分が独善的になっていることを感じていて、
こんな独りよがりのやり方でコミュニケーションをとっていいのかと…
葛藤しているつもりなのです。これでも精一杯。
コロナ禍が訪れた時、はっきりと思った事がある。
まだ関わりがないけど一緒に仕事をしたいと思った人、
側にいてみたいと思った人がたくさんいるなと。
漠然といつか、行動を共にするだろうと思っていたそういう
人たちとの未来がもう来ないかもしれない、
そう思った時に確かな後悔があった。これまでの自分のやり方に。
独善的であるあまりに小さな事に囚われて、人と距離を置いていた自分に。
そう思って今ポツポツといま、やり始めている。
今まではやらなかったであろうことを。
だからもう届かないかも知れないけど、
これはもう自分の中での意識のありようなので、それは精一杯やっていく。
(とはいえそんなにわかり易くはやらないけど。。気持ちわるいし)
未来をみすえたこの時期にすることは、街に暮らして何処かへ行けない人たちへ向けた地域の種を撒くこと。好きや嫌い、人の相性やどうこうを超えてまずは種を撒くことだと思っている。
撒いた種が芽吹くような水やり、
たぶんそれがやさしさとかそういうことで、
それが新しい人たちの最初の発芽になりうる。そう確信している。
(写真は昨日お会いした人たちで構成しました。
昨日は気づかずたくさんの人にあった。)
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