世界で一番美味しいかつざわのカツサンド食べながら僕がなぜモヤモヤを描きたがるのか考える
青梅線中神駅からすぐのブックカフェ
マルベリーフィールドのカツサンドはとても美味しい。
本当に。幸せな気持ちになる。
新刊で買った山本文緒の「自転しながら公転する」
読む前から傑作の予感がする。もはや読まなくても
満足。むしろ読みたくない。
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そんなことはどうでもいいのだが、このところ
僕がいろいろと注力している人の”モヤモヤ”を
めぐる活動についてあれこれ言われる機会が増えた。
やれお前は暇だとか道楽だとか。
そんなことは放っておけばいいのだが、
ここらでなぜ、自分がこんなにモヤモヤを描きたがる
のかを自分なりに言葉にしてみたい。
僕がいつも自分自身にモヤモヤしているのは
現在の僕の出自に戸惑っていることが大きい。
はっきり言っていろんな事をやるのが得意ではなかったし、かといって全くダメというわけでもなかったから
ちょっとダメ、平均点より少しできないくらいの
立ち位置で義務教育は生きてきた。
それでも育ちは相当よかったので甘やかされて育って、案の定社会に出て物凄い洗礼を浴びて全然ついていけず(粘りもなかった)そこからなんとか、
自分なりに何かを表現する仕事ができればきっと
矜恃は保たれる、とかなんとか考えて
カメラマンのアシスタントをしたり、映画の
配給会社で働いたり、芝居をやったり音楽をやったり
ありとあらゆるフラフラすることをやって、しかし
案の定成果は出ず、ちょっと前までコミュニティFMの
制作職をやって、それも頑張ったがやっぱり、やめた。
結果のでない人生を送ってきたのだ。ずっと。
自分がどこか社会の外に外れている気がしていたし、
同世代が出世し結婚し子供をもち、等の
あらゆることがどうしても他人事だった。
いやむしろ他人事にしておかないと惨めすぎるので
そうしておいたのだ。
ちなみに一人暮らしをしてボロボロになって
実家に戻ってきてから、料理も車の運転も
技術はとまってしまっている。。。
そういう中で突然に、ちょっと一眼レフで
動画を撮って、たまたま周囲の環境との巡り合わせも
良くて認められてしまった。
シンデレラストーリーというほどではないが
何にもできないダメな人間が突然カメラマンと言われ、デザイナーと打ち合わせをして作家みたいな
扱いを受けるようになった。
もちろんこういう感じはある意味で夢にまで見て、
とても光栄なんだけど、、どうにも本心では慣れないのだ・・・
周りにいる人たちのステータスと自分に差が
ありすぎる・・・
それでも見た目は一応バレないですみすぎる・・・
そんなことを思っていたら、あんまり劣等感に
苛まれるよりもどんな状態でも人は生きているし、
曖昧な自分自身の今をなんとか肯定できないか、
そんなことを考え出した。
そこで出てきた要素が”モヤモヤ”なのだ。
人それぞれ、口には出しにくいあんなことや
こんな事を抱えている、
そういうモヤモヤした要素があればあるほど
僕の心が落ち着くのだ。
(これはほんとは誰かに怒られるかもしれないけど。)
どんな状態でも人は生きている、うまく行っていることやそうでもないこと、清濁併せ持って人がただ生きているというその事実が最後に、
誰でも生きていて良い、ということにつながると
思ったのだ。
この前仲間に教えてもらった
”ダイバーシティ&インクルージョン”
誰でも生きていて、それぞれの違いがあって、
それを認めて活かして生きていくこと、大体そんなような意味だと思うけど、大まかに言えばそういう事を僕はこの”モヤモヤ”を描くことによってやってみたい。
時代もまさにダイバーシティやSDGSが唱えられる
ようになり、急激に多様な価値を受け入れる社会に変わってきているように感じる。
まぁ人から言わせればいまだに、もうすぐ40にも
なってこんな事を言っている僕はやばいかもしれない。
しかしだ。
ずっとずうっと何かを表現したい、と思っていた
自分自身の目標の生き方には、実は今が一番近い。
そう思った時にはもう他人の線引きでは生きれない。
やばいとか関係ない。やるしかない。
でもまだこの生き方に自信がない。だからモヤモヤする。だからいろんな人のモヤモヤを聞く。そしたらみんな生きている。力をもらってまた一歩、また一歩。
そういうような事を考えているのです。
だからモヤモヤは僕にとって暇つぶしでもモラトリアムでもなんでもない、生き延びるための大事な要素。
そういう事が、きっと他の誰かにも響くと
良いなと思っている。
本音の時代、共感の時代になって欲しいと信じている。
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かつざわのカツサンド、外側をこんがり焼いてくれるのが最高に美味しい。また食べたい。また食べに行こう。
そんな事を思いながら今回も文章を閉じる。
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