精神病院物語第三十四話

精神病院物語-ほしをみるひと 第三十四話(最終話)

 入院生活も三ヶ月になった。前の入院は一ヶ月だったので、ちょうど三倍である。
 江上が退院して、花村や延岡も続いていった。高見沢も退院の準備を進めているらしい。
 長い入院生活だった。辛いことばかりだった。ただ人と接したことだけが、仄かに思い出として残っていた。
 幻聴との戦いは続いていて、未だ戦況は芳しくない。心身共に疲弊して、思考が落ち目落ち目に向いていく。
 僕は健康な体に戻りたい。このろくでもない病気を治して、生活を立て直して、あらためてまっとうな道を歩んでいきたい。自分が生きていることを実感したい。リハビリ生活なんて本当は嫌で嫌で仕方がない。
 同級生たちは皆、大学や社会で自分なりに、良いことも嫌なことも体験しながら頑張っている。僕は彼らが羨ましい。
 イメージする相手に失礼な程、曖昧な形でしかなかったが、それは今の自分がリアルに苦しすぎるからだろう。
 だから思うのだ。「淡い夢」だと。
 その日、僕は久しぶりに感じる猛烈な寒気に襲われていた。
 この冬、僕はずっと入院していて寒い思いなどしてこなかったのだ。今も暖房の中だったが、僕は大きく体調を崩しているのを感じていた。
 デイケアにいる途中からなんだか肌寒かった。赤井がホット紅茶を出してくれたが、それを飲んでも寒気が止まらなかった。結局病棟に連絡してもらい、早めに戻ることになった。
 病棟まで歩いていく道が辛かった。早くベッドで休みたかった。あれほど解放感に満ちていた外の世界も、こんな体調では楽しむことができない。
「凄い熱だ。風邪引いちゃったんだね」
 野辺からもらった体温計で計ると三十九度を超えていた。実は外泊を予定していたのだが、この発熱のせいで延期になってしまった。そのことが地味に悔やまれた。
「とりあえず五日分風邪薬もらってきたから、これで様子みよう」
 風邪薬を飲んだが、すぐによくなるものでもないようだ。今はとにかく寒さに耐えながら布団で縮こまっているしかなかった。デイケアも当然休むことになるだろう。
 僕は嫌な予感がしていた。とても嫌な予感。こんなとき、必ずやってくる奴らがいる。
 この半年以上、僕の行く先行く先で、僕の一番言われたくないことを平気で騒ぎ立てる、どこに行っても逃げられない、人を追いつめて嘲り笑う、嫌な嫌な嫌らしい奴らが。
「……だよ」
「……よねえ」
「……ば良いのに」
 僕は苦しみの中で舌を鳴らした。やはりというか、体調が悪くなった途端、幻聴が押し寄せてきたのだ。
「やめろ……来るんじゃない!」
 三十九度の熱を出して寝込んでいる中で、幻聴まで追い打ちをかけてくるとは、どういう拷問なのだろうこれは。
 この状況はそう簡単には変えられない。僕はしばらくの地獄を覚悟した。そして声は容赦なく洪水のように押し寄せてきた。水際で押さえていた堤防は決壊し、最早水を浴びるのを覚悟せねばならない。
 死ね。
 殺すぞ?
 調子に乗ってんじゃねえぞ。
 逃がさないよ。
 どこまでも追い詰めてやるから。
 また入院したくなるようにもっとハードにしてく。
 こんな人生私だったら耐えられないな。
 まあ人のことだし。
 切り裂くような脅迫と、ネチネチといやらしい嘲りが、震える僕をさらに追いつめて、僕は苦しみを紛らわせるため、なにか声に出さずにはいられなかった。
「は、は、は……たまらない。本当にたまらないよ。どうしてこんなになってしまったんだろうな。まともに生きることすら、許されないなんて……」
 僕は自由が欲しかった。自分の意志で考える自由が。なにか考えるたびにツッコミが入るなんて、まるで洗脳だ。僕は自分自身ですらいられないのだろうか。
 許す訳ないだろ。
 お前が悪いんだよ。
 考えてみろよ。
 やってきたことを。
 自分のこと善人だと思ってる?
 人は変わらないよね。
 こいつは特にね。
 ウケる。
「人は、変わらないのか。そうなのか。だったら、僕はせめて、やり方だけでも変えてみたい。自分が変われないのならば、別のやり方でトライしてみたい。そしたら、案外上手く行くかも。そんな気がする……はあ、はあ……」
 そう、僕は気づいていた。外の世界にいた頃、自分のやり方が拙かったことを。運も悪かったのだろうが、もっと別の道が沢山あったに違いないのだ。だから僕は、もう一度チャンスが欲しい。失敗を元に、もう一度自分なりのやり方を試してみたい。
 こいつ虫のいいこといってるよ。
 潰す。
 絶対潰す。
 再起不能にしてやる。
 狂い死ね。
 殺そう。
 そうだ殺そう。
「そうはいっても、僕はまだ、生きている。いくら責められても、死んではいない。だけど、この先も、辛いのかなあ……」
 中学生の時、がたいの良いいじめっ子に、畑で股間を蹴り上げられたことがある。その瞬間、呼吸ができないくらいに苦しかった。
 あいつらは笑っていたが、僕はその夜、ずっと苦しんだ。患部は青くなっていた。朝起きたときも鈍い痛みが残っていた。
 苦しいときは苦しみが止まって欲しいと思う。恨みがたぎるときは力が欲しいと願う。前者は苦しんだ末にようやく訪れて、後者は叶ったことがない。
 きっと、叶わなくてよかった。己の生み出した呪いとして繋がってはいるが。僕はそんなことをして生きたいわけではなかったのだ。
 死ね。
 お前は死ね。
 死んで清算しろ。
 お前まだやり直せると思ってる?
 無理だよ。
 クズはなにをやってクズでしかないのに。
「もう嫌だ。こんな苦しいのはいつまで続くんだ。いつになったら心休まる日がやってくるんだ。僕はもう疲れた」
 この通り幻聴は僕の周りを渦巻いて離れない。余計な考えが暴れ出し、自分がとことんまでおかしくなっているのを感じていた。
 聞こえるはずのない声がする。最初ノイズだらけで誰だかよくわからなかったが、どうやら小滝さんの声だということがわかった。
「滝内君は私に何度も謝っていたけど、あれは一体、なにを謝りたかったの? あれじゃ私困るよ?」
 自分が惨めになるほど、率直な言葉だった。あんな救いを求めるように謝罪をされて、さぞかし困ったことだろう。
 僕は……本当は謝りたくなんてなかった。他にどんなことを口走ろうと、自分の言葉で小滝さんに話してみたかった。
 これが本音だった。歪んでしまった記憶には心残りしかない。僕はこのことを、一生抱え続けるのかもしれない。
「過去ばかり見てると人間駄目になっちゃうよね。どう、滝内君。戦いには勝てそう?」
 来宮さんの声もした。耳に心地良いソプラノ声は、いくらか元気になって落ち着いた印象があった。
 勝てるわけがないだろう、と言いたくなった。向こうの声は無限。僕はせいぜいやり過ごすことしかできない。
「あんまり思い詰めない方が良いよ少年。辛くなっちゃうから」
「少年は考えすぎで頭おかしくなっちまったんだな」
 江上と高見沢が心配そうに言う。一緒になって僕のことを気遣ってくれる声を聞くと、なんだかやはり兄妹なのかなと思えてきた。
 二人の声を聞いていたら、満の顔が浮かんできた。良い兄なのに、僕は一人で勝手に妬ましい目で見てしまっている。全く、情けない。
 父の声、御子柴の声、延岡の声、野辺や堀、なんだか今まで関わった人たちの声が次々と聞こえてきた。これも幻聴の一環なのか? どうも、現実と夢の境界線が曖昧になっているようだ。この目で見えているものも、少し変わってきただろうか。
 今は……いつか夢にみたコースが目の前に現れてきていた。僕はいつの間にか、ランナーとして下り坂を覚束ない足取りで走っている。
 ランナーといっても競争相手なんていないのだ。先も、ライバルもみえない道を、ただ走り続けるのは根気のいる課題である。辞めてしまおうと思っても、最早ここがどこなのかもよくわからなかった。
 小学一年生の運動会。細い陽の差した曇り空。あの場所だっただろうか、彼らと横一線に並んでいたのは。
 僕はあの時、間違いなく一位を目指していた。
 スタートした途端、みんな、先に行ってしまった。僕はいくら胸を苦しくして走っても、決して追いつくことはできなかった。
 僕が持っている程の思い入れを、みんな僕に持ってなんかいないだろう。僕にとっては恥ずかしさで顔が真っ赤になりそうな、忌々しい記憶だった。
 待ってくれと言っても誰も待たない。
 悲嘆して、手を伸ばしてみても、届くことはない。
 僕は自分でも呆れるくらいに、取り残されてしまったのだ。
 もう、止めてしまおうか。ここで止まったら、いっそ楽になるのだろうか。僕は崩れ落ち、手を地につけて、その場にうずくまってしまった。
「……にいる」
 細い声が聞こえてきた。このはっきりと聞こえてない声も、聞こえれば僕を追いつめる残酷な言葉になるのだろう。
「なんだ? また幻聴が聞こえるのか? ふざけやがって」
 本当にふざけてる。怒りをぶつける場所がないのがもどかしい。
「……を見て」
 よく聞いてみると、その声は人を貶める残酷な響きに欠けていた。なにか訴えかけるような、切実な響きが感じられた。
「なんだ、一体なんなんだ」
 聞こえそうで聞こえない声に耳を傾けるのは勇気のいることだった。一瞬耳を塞ごうかとも考えた。
「私はここにいる! 私を、見て!」
 誰かが、誰かが僕のことを呼んでいた。周りを見渡すが、犬の子一匹みえやしない。やっとのことで下り坂を抜けたと思ったら、次は呆れるほど平坦な道が続くばかりなのだ。
「ここよ! ここ!」
 ハッと振り向き、身を屈めた。すると一寸法師の如き小ささの髪の短い女の子が、僕に向けて声を張り上げて叫んでいたのだ。緑色のシャツに褐色の半ズボンを履いた、どことなくイケていない感じの女の子。髪もところどころ寝癖があるようだ。
「やっと見つけてくれたのね! ずっとあなたのことを呼んでいたのに!」
「君は、一体」
「私は! あなたの才能の精よ!」
 女の子は声を張り上げて、耳を疑うような名を名乗った。
「才能の精だって?」
「そうよ! 私はあなたの才能そのもの! ずっとあなたと一緒にいたの!」
「ば、馬鹿な」
 僕は驚いてしまった。なにせその娘ときたら、僕の小指ほどの大きさすらないのだから。人の才能とはこんなに小さなものなのか。いや、むしろこれは、僕だからなのか?
「なんてことだ……僕の才能はこんなに小さかったのか。これじゃ漫画家になんてなれないわけだ……」
「あなたふざけないでよね……! なに寝言いってるの?」
 そうはいうが僕は真剣に落ち込んでいた。いくらなんでもこの小ささはないと思うのだ。これでは今からなにをやっても上手くいかないのではないか。
「あなたねえ。いい加減にしないとキレるよ!」
「ひっ! ご、ごめん!」
 吹っ飛ばされるかと思うくらい凄い眼力だった。どうやらこの娘は、僕の考えていることがダイレクトにわかるらしい。
「あのね。あなたが頑張れば私はいくらでも大きく強くなれるのよ。それなのにあなたときたら……小さい頃からゲーム三昧。勉強はしない。前向きな趣味はない。卓球をやってみたけれど万年補欠。それなのに私にそんなに期待されても困るんだけどなっ!」
「うう、それは」
 胸を張って頑張った。といえるほどのことはしてこなかった。才能の精に怒られるのも無理はないことだった。
「それは別にいいの! だけど、これだけは信じて欲しい! さっき言ったとおり、あなたがやろうと思えば私はいくらでも大きくなれるんだよ! あなたも私も、これからの方がずっと大事なの!」
 才能の精は一生懸命、僕のために声を張り上げてくれていた。その必死さを見ていると、なにか応えねばならない気がした。
「じゃあ、僕は君を大きくするために、なにをすれば?」
 なんだか僕は焦ってきた。自分のこれからのことを考えるのも、だんだん怖くなってきた。
「なにをやろうが、辞めようが構わない! だけど、私があなたと一緒に戦ってあげる!」
「一緒に?」
「そう! だから、思うがままに生きて欲しい!」
 彼女はコースの先に人差し指をぴしっと向けた。
「あなたはみんな先に行ってしまった。とよくいうけど、それは違うよ! あなたがいくら急いで先に行こうが、彼らは誰一人としていないんだ!」
 僕は脚が遅い。だからみんなにはずっと追いつけないと思っていた。だけどそれは違うのか。誰もいないのなら、いくら速く走っても、意味はないというのか。
「そう、なの?」
「そう! みんなそれぞれ一人で、全く違うコースを走ってるの! この先どれだけ走ったとしても、あなたが悩んでいるようなことはなにもないから。あなたは気にせず走ればいい!」
 こだわっていたことの答えが、一気に出てしまった。僕が気にしていたライバルたちは、それぞれ全く別の方向に走って行ってしまっていたのだ。思えば僕は、彼らがどこをどう走っているかなんて、ほとんど知らなかった。
 それを知るとホッとする一方で、どこかへたれてしまいそうだったが、いつしか僕は顔を上げ、コースの続きを見据えていた。
 この先を行ってみようか、大丈夫だろうか。
 だけどなにか忘れているような気がする。そうだ。僕は、風邪をひいていて、幻聴にやられてうなされて、いつの間にかこんなところにきていたのだ。
 風邪をひいているのでは、一旦走るのを止めて休まねばならないのではないか?
「そうだね! じゃあ! まずはそれを治さないとね!」
 才能の精の声がエコーのように響きわたると、徐々に風景が薄れていき、暗く、暗くなっていった。僕の心は、別のステージへと旅立っていく……。
 ハッと目を開けた。膨大なイメージが、いずこかへと押し込まれていった。
 着ていたシャツがびっしょり濡れている。視界は覚束なかったが、次第に暗い場所にいることがわかってきた。
 闇に包まれた天井が、僅かな光でひんやりと照らされている。ここは、病室のベッドの上だ。
「僕は、今まで、なにを……?」
 辺りは真っ暗になっていた。消灯である。そういえば寝る前の薬をまだ飲んでいない。今からでももらってこなければならない。
 汗まみれになっていたが、頭はクリアだ。凍えるような寒さも、幻聴も失せていた。
 さっきみた光景は夢だったのだろう。だけど真に迫った夢だった。確か、今まで考えもしない発想が浮かんできたのだ。自分の走っているコースには、他の選手は誰一人として走ってはいなかったという……。
 目から涙が流れていた。ぱちくりさせたが、なんだか視界がキラキラと白く弾けるようだった。薬が効きすぎてハイになっているのかもしれない。妙に、走り出したいような気分にかき立てられていた。
 ベッドから下りて、ふらふらと廊下を歩く、ナースステーションとは逆に足が向かっていた。窓から外を眺めると、今日も街宇宙が広がっていた。
 宇宙は、呆れるほどに広大だ。
 電気塔の赤い星はどこか不安をかきたてられるようで。いつまでも見ていられないような危険な力を持っている。黄色く駆ける車星は群れをなした蜂のように軽快に闇を翔けていって、続く光も同じ軌道を保っていた。
 今見えている光は、この世の光のほんのひとかけらに過ぎない。外の世界は、抱えきれないくらいの光で溢れている。名前も知らない人たちによる輝きが。
 僕は以前、あの場所にいた時、なにもかもが駄目になってしまった。臆病で、なにをすればいいのかもわからなくて、毎日を生きていくのが不安で不安で仕方がなくて、周りの光を掴むことも、気づくことすらしてこなかった。
 そこにいるときは、わからないこともある。僕はこの入院生活で大変な苦しみを味わったが、よかったこともあった。行きたくもなかった精神科で、希望を失うほど辛い日々を過ごすことで、この世の光の目映さを知ることができたのだ。
 だから僕は、あそこでもう一度、違うやり方で戦ってみたい。ここで生きてきて感じたことを無駄にしないためにも、自分が生きている意味を知るためにも、できる限りの力で戦ってみたい。
 繁華街のネオン星。ちかちかと点滅する緑色、青色。煌々とここまで届いてくる無数の星の光に憧れ、僕は窓にぶつかるくらい手を伸ばした。
 走ろう。ライバルたちへのこだわりも、遅れていることへの引け目も、全部捨ててしまえばいい。あの夢の中で、必死になって僕に訴えてくれた彼女のためにも。
 胸の奥で先への思いが燃えたぎっている。僕は衝動のままに刮目し、思いの丈を叫んでいた。
 今、身に受けている光を。あの星々……輝くこの世の光を、僕は絶対に掴んでみせる! 次にあの場所に立った時に、必ずこの手で掴んでみせる!
 僕はここで生きている。これから先だって生きている。きっと未来の自分はあそこに立っているはずだ。その時はなにもかもを、この目で確かめてくるんだ。
 先の先、果てのない宇宙に憧れ、僕は病棟の地から天を見上げていた。天体観測。視界は良好。今日の夜空は、絶景だった。(了)

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佐久本庸介
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