精神病院物語-ほしをみるひと 第十八話
その日の夜、隣のベッドに人はいなかった。一つ先のベッドではおじいさんが静かに寝息を立てている。
これまではうめき声のせいで眠りを妨げられつつ、それでも眠っていたわけだが。障害がなくなったからといって、すんなりと寝入れるわけではなかった。日中寝すぎたせいで僕の目は冴えっぱなしだった。夜はまだ長く、布団でずっと潜っているのがしんどくなってきた。
また、夜景でも観に行くか、と思った。この病棟に入ってから、外の景色に憧憬を覚えるようになった。紅、橙に、碧色、幾多の煌びやかな光を眺めていると、いつかあそこに行ってみたいと思うのだ。いや、実際に光のある場所に行けている気すらする。
今日もホールの大きな窓から、闇に浮かぶ無数の光を眺めてみた。その輝きが感情を揺り動かし、いくつも言葉が浮かんでくる。懐かしい。帰りたい。と。
手を伸ばせば届きそうで、決して届かない。果てしなく遠い光が僕の目に届いていく感じがして、あっ、あっ、と僕は途方もない気持ちになって目が潤んできた。
まるで、星空を観ているようだった。この窓からは天を観ることができない。だけど僕にはこの窓に映っているのが宇宙に見えた。
例えてみれば僕は宇宙人で、あの星々には滅多なことでは行くことができない。だけどいつか、あそこに立って歩いていけるだろうか。
こんな狭苦しい星での生活に押しつぶされていいわけがない。僕は、宇宙に行きたい。重力を振り切って、飛び去ってしまいたい。
「そんなに熱心に、なにをみてるんですか?」
小鳥のさえずりのような心地いい声が、すぐ横から聞こえてきた。
パジャマの上にベージュ色のカーディガンを羽織った姿で、来宮さんが立っていた。星座の女神の如き麗しさには圧倒されるばかりで、微かな光に照らされた卵型の艶やかな頬が、象牙のように白く輝いていた。
僕は一瞬言葉を発することができなかったが、なにもしゃべらなければ場が止まってしまう。今まであれだけ近づきがたかった来宮さんが、どういうことか今は間近にいる。しかもこのホールで二人きり。こんな得難いシチュエーションは全く想像していなかった。
もしかしたらこの病棟で散々苦しみぬいた僕を見かねて、神様が授けてくれた奇跡かもしれない。
「い、い、いや! 夜景を、見てただけです。なんだか、空の星、みたいだって」
今気づいたことを、そのまま話してしまった。動転していて、まともに考える時間がなかった。
言ってからすぐに後悔した。夜景の光が星に見えるだなんて、不審に思われるに違いなかった。
「星? あの夜景が星にみえるの?」
来宮さんが微笑んだ。それをみて僕は胸の中心から喜びが湧いてくるのを感じた。話したことが受け入れられる喜びは何物にも代えがたいことだった。
「面白い事考えるね、君。私には、やっぱりただの夜景にしかみえないな」
「すみません」
「謝らなくていいって。だけど不思議。想像力があるのかな」
想像力。今の僕に、そんな秀でたものがあるとは思えなかった。
「わからないけど、なんだかあの光をみてると、帰りたいって思うんです」
「それは、なんだかわかる気がする。ここに長くいると、外が恋しくなるよね」
来宮さんは意外とよくしゃべる人だった。そして年上らしく振舞っていた。年下の女の子に見えるけど、実際は僕より五つ年上である。
「漫画とか描いてるから、いろいろ考えてるんだろうね」
それをいわれると僕は情けない気分になった。漫画など、僕は少しも描けやしない。落書きのような漫画ばかりで、世に出ることを目指した作品など、一度も描いたことがなかった。
「漫画なんて、僕は少しも描けないんです」
本当は見栄を張りたかったが、ごまかせるような実力もなかった。
「いつも描いてるじゃない」
「あれはなんていうか、ただの落書きですから」
来宮さんは闇に光る氷のような輝きの瞳を向け、ゆっくりと頷いた。
「夢が形にならないんだね」
来宮さんは少し目を伏せ、また僕に静かな眼差しを向けた。
「あなたがどこまで本気かは知らないけど。本当にやりたいことだったら、大事に続けなきゃ駄目だよ。そうじゃないと」
来宮さんが「抜け殻のような人間になってしまうから」と言って、二回瞬きをした。
以前、来宮さんが、自分にはなにもないといっていたことを思い出した。彼女はどうやらその考えに、本気でこだわっているようだった。
「抜け殻だなんて、自分のことを思っているんですか」
「いやだな。そんな聞き方しないでよ」
来宮さんは少し寂しそうに「心配しないで、夢がなくたって、人間生きていけるもの」と力なく笑った。
僕は不思議だった。二十四歳なんて僕からみたって、まだまだ先がいくらでもある気がする。僕は自分の夢には絶望しかけているが、夢を見ること自体を捨てたりしない。来宮さんはどうしてこうも頑なに、自分の将来を否定するのだろう。
「そんな、まだ全然若いのに、諦めるなんて」
僕はなんとか来宮さんを説得しようと思った。それで気を取り直して、前を向いてくれたら良い、と本気で思い始めていた。
「いいよ。もう気にしないで」
「駄目ですよ。どうしてそう思うんです」
「いや、そういうのいいから」
不意を突くような来宮さんの言葉に、僕は背筋が寒くなった。来宮さんの口調は強く、そして冷たかった。
「ごめんね。でも私、わかってるんだ」
来宮さんが窓の夜景に目を向ける。今にも飛び去ろうとしている妖精のようで、横顔に薄っすらと影がかかっていた。
「君は、多分、私のルックスを理由に、私の心配をしている」
「えっ……」
その言葉が予想の斜め下を行き過ぎていて、最初僕は自分の言語認識機能がおかしくなったのではないかと疑った。
血の気が引く。残酷極まりない言葉が、実際に言われたことだと理解すると、体がバキバキに壊れて崩れ落ちてしまいそうになった。
僕は、今までロマンチックな雰囲気に浸っていた。独り相撲だったとしても、自分が気づくまでは幸せだった。だけどその思いは痛々しい思いと共に引き裂かれてしまった。
だってそんな言い方はない。あんまりではないか。相手の心配をしていたのに「お前は私の顔が良いから親切にしているんだろう?」なんて、これ程、酷い言い方はないではないか。
「ち、違います! そんな、そんなこと、ないですよ!」
しかし来宮さんは少しもそれを気にするようでもなく、淀みなく言葉を続ける。
「もし私が、たとえば……ここに入院しているおばさんたちのように、もっと年老いていて、目も当てられないくらい歪んだ顔をしていたとしたら。その上で自分にはなにも中身がないと、繰り言のように呟いていたとしたら」
そういって来宮さんはまた僕の目を正面から見つめてくる。
「私は言い切れる。多分君は、私と目を合わせようともしないはず」
僕は、今にも体の芯がポキリと折れて、倒れ込んでしまいそうだった。
来宮さんの語った露骨で気持ちの悪いろくでもないことを、まともに聞きたくなかった。だけど真面目に考えれば考える程、それは真実のような気がして、情なくて、逃げ出したくなってきた。
そう、僕は、確かにこの病棟で、相当に見た目の悪い人と、無意識に目を逸らしてしまう。少なくともお互いに話をするまでは、自分から関わろうとしたこともない。来宮さんはもしかしたらその様子もみていたのかもしれない。反論など、できるはずもない。
「ごめんね」
来宮さんは表情を動かさずそういった。それを聞いたときの僕は、きっと救いを期待していたと思う。
「私は、君の人となりや想いを否定したいわけじゃない。だけど、私には期待しない方がいいんだ。私には、君の思っているような中身はなにもないの。本当に、本当になにもない人間だから。これから先も、いるべき場所にいて、ただ生き続けるだけだから」
期待していた言葉は、なにもなかった。なにもかもを諦めた彼女の意志があるだけだった。否定したかったが、それができる言葉を僕は持っていなかった。
「私はね、友達と一緒に夢を追いかけていたの。みんなキラキラしてて、私より可愛くて歌も楽器も上手い子たちばっかりだった。みんなと一緒にいることが、私の人生だって信じてた。信じすぎていた」
来宮さんの言葉から、少しずつ落ち着きが失われている気がした。口調も少しずつ早く、震えがちになってきていた。
「だけど……ある日、突然私はメンバーから外された。許せなかった。みんな私のことを陰で疎ましく思っていたの。恨んだよ、死にたくなるほど」
許せない。その言葉が、僕は怖かった。
「だけどね……彼女たちは半年で空中分解してしまった。私は、自分が人生だと思っていた輪の中にいることができなかった。その半年の間……私がみんなにどんなことをしたか、想像できる? フフ、できないよね……あんなことになるなんて……嫌がらせなんてものじゃなかった……ざまあみろって思ったのかな……わからない。なにもかもわからないけど……もうなにもかもが、終わってしまった……」
来宮さんの話は、徐々にまともな形を成さなくなってきた。ただそこから読み取れる事実から、来宮さんの悲惨な過去を垣間見ることができた。
「場所は、なくなればそれっきり、元になんて戻れない。帰りたい場所にも、帰れなくなってしまう」
来宮さんはほとんど独り言のように語りを続けると、突然、僕がたじろぎそうになるほど強い目を向けてきた。
「あなたは……あなたは、夢を捨てちゃだめだよ。夢がなくなったら、ただ生きてるだけなの。終わりが来るまで、ただ生き続けるだけ。あなたはそんな風になっちゃいけない。良い? 絶対に夢を諦めては駄目だから。忘れないで、私があなたの夢を信じるから。絶対に夢を諦めちゃ駄目。絶対に……!」
来宮さんが我を忘れて、目を見開き、どうしようもないことを呟きながら詰め寄ってきた。僕は相手が来宮さんなのに、迂闊にもその迫力でただただ気圧されてしまった。
「き、来宮さん!」
来宮さんはハッと我に返ったように目を大きく開くと、右手で両目を押さえながら後ずさった。
「ごめん、ごめんね……」
「来宮さん、僕は」
なにか言ってあげたかった。だけど、僕なんかになにが言えるというのだろう。
僕は彼女が語るほどの夢など持ったことがないし、今まで惜しいと思えるほどやってきたこともない。だから適切な言葉が、なにも出てこない。
「私、もう寝るね」
来宮さんは憑き物が落ちたかのように、か弱い声でいった。僕はまだなにか話さねばならない気がしたが、止めることなどできなかった。
「今日のことは気にしないで。でもよかったら、この先も心のどこかで覚えていてほしい」
来宮さんは悲し気に目を伏せながら頭を下げると「おやすみ」といって軽く手を振った。
僕はなにか言おうとしたが、どうしても口が開けず、病室へ戻っていく来宮さんに向けて、ついに返事をする機会を逃した。
「どうしよう」
誰もいないホールで独り言をいった。実際、大事ななにかを失くしたような気分だった。
「一体、なんだったんだろう……」
静けさに包まれた暗闇の中、僕は病室にも戻らず、ここに一緒にいた可憐な少女との会話の余韻に、打ちひしがれた心で浸っていた。
夜はまだ長い、窓の外は宇宙に広がる星の海の、煌々とした光が広がっている。
流れる星はどこに行くのか。僕は不思議と目を潤ませながら、いつまでもその軌道を眺めていた。(つづく)