精神病院物語第二十三話

精神病院物語-ほしをみるひと 第二十三話

 夜になった。夕食が終わってから僕はホールで絵を描くわけでもなくぼーっとしていた。これは平常運転である。だが今日は割とホールが賑やかで、見ているだけで十分だった。
 なにより目に付くのは、僕の部屋で倒れていた長髪の大男だった。あの人は最近入院してきた人のようだが、驚いたのは本当によくしゃべることだった。しかもその内容が内容であった。
「R社の株は買っておいて正解だったわ。俺の目に狂いはなかったってことだね。俺に資産運用を任せてくれればあっという間にみんな金持ちにしてやるぜ。俺? 俺は金を稼ぐのが趣味だから、必ずしも自分が儲からなくてもいいんだよ。それよりお前、夢を掴んで変わりたいって思わねえの?」
 大男は他の患者を捕まえては聞いているだけで絶望するような世迷い言を話してまわっていた。どういうわけか高見沢だけが真剣な顔をして長い時間付き合っていたが、大男が社会でどんな生き方をしていたのか想像できてしまうことに、なんともいえないやるせなさを感じた。
「お前すげえな。訳わからないけどとにかくすげえ、今度相談に乗ってくれよ」
「退院したら俺のところに来い。使ってやる」
 あの二人の間で具体的な話が進んでいるのを聞くと、本当にこれでいいのだろうかという気持ちになる。しかし大男の事情を正確に知らない僕がなにをいっても、いい加減な言葉にしかならないだろう。なんとなく高見沢が心配ではあるが。
 すると共有の受話器が鳴っているのに気づいた。この電話には患者の家族からの着信が入ることがある。僕はもしかしたら家からの電話ではないかと期待して受話器を取った。
「もしもし?」
「X商事の物ですが、倉科社長はいらっしゃいますか」
「はあ? 社長?」
 僕は相手がなにをいっているのかわからず、首を傾げた。
「おお、それ俺のだ」
 横から受話器を取られると、そこには大男が立っていた。大男は電話越しに「俺だ」というと、また「ビジネス話」を繰り広げていた。
 大男の話は流暢で全く止まらない。精神科で入院中の患者としてはあまりに場違いな話しぶりを目の当たりにし、僕は酷く混乱させられた。
 一体、なにが起こっているのか、訳が、わからない。
 世の中には理解の及ばないことがたくさんある。僕はなにをしたわけでもないのに、ドシッとのしかかる疲れを感じた。額に手を当てながら、ふらふらと自分の部屋へと戻っていった。
 だが途中の部屋で呼び止められた。猿男が部屋からニョキッと顔を出してきたのだ。
「ヒッヒッヒ。滝内君、たまには俺の部屋に来いよ」
 猿男は今日も顔に血が上っているのか、赤い顔をしながら皺を寄せてにやけている。相変わらず凄い笑い方をするなと思った。この人が外の世界で生活しているのが全く想像できない。
「ええ? 別にエロ本なんて見たかないですよ」
「失礼だなあんた、エロ本以外にもいろいろ面白いものがあるって」
 僕は猿男のにやけ顔を凝視する。最近ようやくこの人を猿だと思わなくなった。こんな失礼なこともないと思うが、猿似の人間という物は本当にいるものだと感心したくらいである。
 猿男の部屋に入ってみると、驚いたことに堂々とエロ本が山積みになっていた。これほどあけすけに置いてあるということは咄嗟に隠す場所があるのか、それとも巡回にくる看護師が見て見ぬフリをしているということなのか。他にもマンガや図鑑、古びた新聞やアニメキャラのフィギュアなど、雑多なグッズで溢れていて、こんなに散らかった病床もなかったなと驚かされた。
「これ、よく怒られませんね」
「ヒヒッ。これくらいなけりゃ人間らしい生活なんてできねえよ」
 猿男はガサガサと棚の中を漁り、漫画本を何冊か取り出した。一冊は大御所漫画家の描いたホラーマンガだった。
「イヒヒヒッ、これはいいぜえ。こんなのみたら夜眠れねえよお?」
「いや、怖いのはちょっと」
 この漫画家には凄く興味があったが、自分の今の病状を鑑みて、そういったマンガの本来の面白さを受け止められる自信がなかった。
「じゃあこれだ。ヤンキーマンガの金字塔!」
 リーゼントのヤンキーが扉絵の、これまた超ベストセラーのマンガだった。
「いや、ヤンキー物もちょっと」
「ふうん、だったらこいつはどうだあ?」
 三冊目をみた僕は自分の中のアンテナがビビッと動くのを感じた。
 めぞん一刻、一巻。
 エプロンを着た生活感のある美女が扉絵で、古い絵柄ではあったが奥ゆかしい色気があって、僕は強く惹かれた。昔インターネットでこのマンガの熱烈なファンと関わったこともあり、全く知らないマンガでもなかった。
「これ、貸してもらえるんですか?」
「おう貸す貸す。これは最高だよ。るーみっくワールドの最高傑作だよ」
 るーみっくワールドというのがなんなのかよくわからなかったが、僕はめぞん一刻を借りることにした。
「読むのに時間かかるかもしれませんが」
「当分貸してやるからいいよ」
 猿男はびっくりするくらい親切だった。しかも趣味が自分に似ているのではないか。
 めぞん一刻を借りて自分の部屋に戻ると、強烈な邪気を感じた。
「こいつには病院がお似合いだね」
「たまに外に出られれば十分でしょ」
「どうやっても出られないようにしてやるから」
「頭おかしいからどのみち出られないよ」
 待ちかまえていたっかのような幻聴だった。不意に攻め込まれると、ここにいるのにいられないような、浮き足だった気持ちにさせられる。
 疲れているのだろうか。だけどこのまま休んでもきっと幻聴に耐えながら苦しまねばならない。一方的にやられるのではなく、少しは前向きな気持ちでいたい自分がいる。一つここは踏みとどまって、めぞん一刻を読んでみようではないか。
 ページをめくる。主人公は浪人生。歳は今の僕と同じだ。変人ばかりの下宿での生活に倦んでいる中、新しい管理人がやってくる。その人はとてつもない美女だった……。
 恋。たまらなく焦がれる恋。自分と似た主人公が羨ましくなるくらい、おかしな環境の中で生き生きとしていた。
 ページをめくる勢いが止まらない。浪人生は管理人にアプローチをかけ、どたばたな出来事の中、二人の距離は近づいたり遠ざかったり、道のりは全く平坦ではなく他のキャラクターまで巻き込んでいく。そして僕は、この物語の絶対的な背景を知ったとき、目が見開くほどの衝撃を受けた。
 幻聴が、消え去っていた。この漫画の持つ力に引き込まれ、僕は一旦この病院の世界から魂が抜け出したのだ。
 それから鼻息を荒くして、猿男に二巻はないのかと聞いてみたが、彼はブックオフで買ってきた一巻しか持っていないようだった。
 続きが、読みたい。だけどここには一巻しかない。
 だけど退院すれば、いくらでも続きが読める。世の中にはこんな面白い漫画があるのだ。統合失調症がなんだ。幻聴がなんだ。僕は退院して、この漫画を本屋でみつけてやる。
 その日の夜はめぞん一刻のことばかり考えていた。浪人生と管理人の恋路がどこに向かうのか、僕は珍しく興奮が止まらなかった。その興奮のまま、その日の夜もなかなか寝付けなかった。(つづく)

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佐久本庸介
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