精神病院物語第十五話

精神病院物語-ほしをみるひと 第十五話

 患者は病状が悪化すると、緊急措置として隔離室に入れられることがある。僕もあの調子では入れられるのではないかと半ば諦めていたが、看護師は僕を病室まで送ってくれて、頓服の薬を一錠飲んだだけで事は収まった。
 医師の判断としては、他の患者に対する攻撃性もみられないことから隔離室に入れるケースではなく、まずは休息をとらせて体調を安定させることが大事、ということだったのだろう。
 その代わり、症状を隠していたのはばれてしまった。正直に話してくれないとむしろ退院が長引きますよ、と主治医に言われた時は、思わず泣き出しそうになった。
 薬は少し戻された。以前よりもさらに頭がぼーっとするようになった気がした。これも仕方のないことだろう。これからは本当に病気を治すため、患者の僕も連携していかねばならない。
 しかし不満なのは、未だに幻聴が消えていないことだった。いくらか勢いは落ちているが、やはりまだ聞こえてくるのだ。
「こっち見……してるよ」
「哀……だねえ」
 微かな声を、はっきり聞こうとするとまたおかしくなってくる。しかし聞こえている物を無視し続けようと頑張るのも、神経を使うものなのだ。
「ある程度聞こえてしまうのは仕方のないことだと思います」
 週のはじめ、主治医がやってきたが、今日の僕は以前よりトーンダウンしていた。退院させてくれなどと、滅多にいえなくなってしまったのだ。
「退院はまだ先ですが、一度外泊を試してみても良いと思っています」
 主治医の意外な提案に驚いた。僕は症状を隠して、まさに先週調子を崩してしまったのに、まさか外泊を許可されるとは思わなかったからだ。
「最初は一日、徐々に二日、三日と順を追ってしていきましょう。お母さんとも話し合いましたが」
 主治医はこの辺りの日が良いのではないかとカレンダーを指さした。僕はいつでも大丈夫だ。
 今週末、僕の外泊が決まった。退院に向けた大きなアクションである。
 嬉しくないわけがなかった。心が浮かれる程だった。もう一ヶ月弱、娑婆の空気を吸っていない。
「おい少年!」
 金髪メガネの看護師が声をかけてきた。この人も口は悪いが親切な看護師だった。
「今から屋上に行くんだが、少年も行くか?」
「えっ? それって」
 僕はここの屋上に行ったことなどない。だからどんな場所かはわからないが、多分外の空気が吸えるということだろう。
「いいんですか?」
「たまには外に出ないとな」
 高見沢や木元は、たまに看護師から外出許可をもらって外に遊びにいっているらしい。しかし僕にそういう話はまだ出ていない。これからも退院するまでないかもしれない。
 一旦病棟の外に出る。この錠を潜るのは入院した時以来だ。
 それからさらに看護師が錠を開けて、階段を上っていく。病院の中は普段、絶対に通らないような場所が沢山ある。少し色の褪せた壁が、この病院の歴史を感じさせた。
 上った先の錠が開けられると、そこから眩しい光りが射してきた。
「うわああっ……」
 視界が、空が、小麦色に輝いていた。寒いくらいの風が吹いていたが、いくらでも吸っていられそうな瑞々しさを感じる空気だった。屋上には沢山の草花が植えてある庭園が広がっていて、芳しい匂いを醸していた。
「これは……」
 僕は目頭を押さえた。
「たまらない、ですね」
 痛烈なまでの解放感に、それ以上なにもいえなかった。
「もっと早く連れてきてやりゃよかったか。やっぱ嬉しいよなー」
 ずっと、忘れていた。外の世界の醜さばかりにこだわって、本来ある壮麗さ、清々しさを考えることもしてこなかった。こうやって久しく離れていた外界に触れてみると、生きていることが本当は素晴らしいんだということを、肌で思い知らされるのだ。
 金網越しに、街並みが広がっている。今の僕には、それがそこにあるだけで幸せだった。
「やっぱり、僕は退院したい……」
 束の間のひとときだったが、かけがえのない時間だった。なんだか外の世界が、自分を待っていてくれていたような気がしたのだ。(つづく)

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佐久本庸介
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