精神病院物語第二十八話イメージ

精神病院物語-ほしをみるひと 第二十八話

 東京で過ごした最後の日々。小滝さんのことで散々苦しんだこと。自分の底をみたこと。幾多の忌まわしい記憶が全て蘇ってくるのを感じた。それらは様々な前提が抜け落ちていて、どうしてこうなったかを聞かれても、僕はきっと理路整然と説明できないだろう。
「お前はお前みたいな奴のことを好きになってくれた人に、あんな酷いことを平気でいったんだ。生きてる価値もないし、このまま精神科に居続ければいいんだよ」
「全くその通りだよねえ」
「真実そうなってるもんね」
「小滝さんだけじゃなくて、ここの病棟でも似たようなことしてるんじゃない? 来宮さんだっけ」
「あの人可愛いよね」
「小滝さんじゃなくてあの人ならいいんだ?」
「うわー本当浅ましいね」
 幻聴が、過去の記憶から、今に至るまで事実を引っ張ってきて、僕の神経を逆撫でする。ベッドの上で、頭を抱え、それでもなお聞こえる幻聴に、やめろ、やめろ、と抵抗する。しかし声は決して止まない。
「お前みたいな面食いに恋なんてする資格はないんだよ」
「ここで殺しとこうか」
「放っておいて死ぬまで入院させよう」
「でも家族がかわいそうだよ。負担になるよ」
「やっぱり殺そうか」
「そうだ殺しちゃおうか」
「このままにしとけば死ぬかな」
「完全犯罪だよね」
 うおおおおおっごおおおおおお、うっぐおええええええええ、うごぼおおおおおおおお。
 僕は目玉が破裂する程、頭に血が上り、最早ここで耐え続けることは不可能だと認識した。
 ああああおおおおおごおおおお、ぎえええええええええいいいえええぇ。おおおおおおおああああ……。
 僕は幻聴に苛まれ、ホールまで歩いていくと、外がみえる窓の前にもたれ掛かった。
 この窓がもし開くならば、このまま飛び降りて死のうと思ったかもしれない。
 なにが殺すだ。なにが死ねだ。僕が、僕がなにをしたっていうんだ。ただ、自分の良いように生きてきただけなのに、それが悪かったって言うのか。
「おお? あいつ言い訳しはじめたぜ」
「そうだよ。お前は人をもてあそんだんだよ」
「自分をごまかしてんじゃねえぞクズが」
「お前がどういう奴かってことはもうわかってるんだよ」
 僕は、言い訳……。
「そうだよ言い訳だよ」
「なんか言えば許されるとでも思ってんのか?」
「もうあんたは逃げられないよ」
 逃げられない、逃げられない、僕は、ここから逃げられない。この幻聴から、逃げられない……。
 一体、僕は、みんなのことを、どう思っていたのだろう。どう思っているのだろう。
 執着するはずのないことを、考えさせられ、誰に言ってもいないことを、言ったことにされ、僕はもう、自分のこともよくわからなくなってしまった。
 窓の外には、綺羅星たちが街宇宙の営みを僕に伝えてくれる。余裕のある時は、あの光を掴んでみたいと思っていた。だけど、今は全く駄目だ。自分がとことん駄目だということが、今では嫌と言うほどわかる。
 強烈な電波の如く、幻聴は耳に流れ込んでくる。ストッパーなどどこにもありはしない。
 やめろ、やめろ、もういい加減、声をやめろ、やめて……やめてくれ……。
「どうしたの? 滝内君」
 僕はこのホールに誰か他の人がいることに気づきビクッと身体を震わせた。しかしその声は小鳥のさえずりのように穏やかだ。僕は頬を手で押さえながら振り向くと、パジャマにカーディガンを羽織った来宮さんが立っていた。夜の光に当てられた来宮さんは、女神の彫刻に人の温もりを加えたような神々しさを醸していた。
「さっきから一人でぶつぶつ言ってるけど、大丈夫?」
 瞬時。僕は胸の奥から邪念が湧きだしてきた。そして、それを我慢することができなかった。
「来宮さん。あなたのせいですよ……」
「えっ?」
 来宮さんは不安げに目を開き、僕の前に座り込んだ。
「どうして、どういうこと? なにが私のせいだっていうの?」
 来宮さんは少し震えているようだった。怖がらせてしまっているのか、だけど僕は声を自制できない。しゃべらずにはいられなかった。
「あなたのせいで、僕は、思い出したくもない記憶を思い出して、責められて……」
「責められる? あなたもしかして、幻聴が聞こえるの?」
「聞こえない! ……いや、聞こえているけれど!」
 僕は自分がおかしなことを話していることはわかっていた。だけどもう僕は心のストッパーが全部外されてしまっていた。
 もういい。なにもかも、言いたいことをいってしまおう。僕は声が出るままに、来宮さんに喋りかけた。
「僕はね……あなたに僕が人をルックスで判断していると指摘されて、全くの図星だったんですよ。僕は自分に好意を持ってくれた人のことも、ルックスのせいで軽んじていたんです。だけどね、僕はそのことを大して意識なんてしていなかったんです。それを僕を毎日責め続ける声がネタにして。毎日毎日ネチネチネチネチ声にやられて、考えたくもないことを、どうしても考えなければならなかった。無理に考えて、訳がわからなくなって、なにが良いことでなにか悪いことなのかもわからなくなって、僕はどうしようもなく追いつめられていくんです、ああああもう訳がわからないけれど!」
 僕は支離滅裂なことを自分がいっているのはわかっていた。来宮さんは思いの外、真剣に聞いているようだったが、こんなものは自分の感情をそのままぶつけているだけである。
「自分で思っていることも、本音だと信じていたことも、全部あの声がことごとく否定する。だから僕はずっとそのことを意識しないように努力したのに……なにもかもが、駄目になってしまった」
 本当は来宮さんのせいではない。生きている以上自分から逃れることはできない。僕は単に今少しの間だけ、自分の責任から逃げたくて来宮さんに罪を押しつけているのだ。それを止められない自分は、もうまともな人間ではないのだろう。
「滝内君、それは、君の本心なんだね? 本気で言ってると思って良いんだね?」
 来宮さんの目つきが変わった。あのとき、僕に夢を諦めるな、といったときのような、凄みと狂気の混じった見開いた目だ。
「私には、それが凄くよくわかる」
 僕はいい加減なことをいわれていると思い、カッと怒鳴りつけたくなった。実際声にも出た。
「わかるですって? いい加減なこといわないでください。僕は今だって、奴らが僕を否定する声が聞こえるんです。あなたに聞かせられないようなことを」
 奴らは、僕が来宮さんに気があることをネタに、あることないこと僕に吹聴してきていた。そいつらが本当に目の前にいるなら殺しにかかっているかもしれない。刑務所に入ったって構うものか。このまま虐め殺されるより……マシだ。
 来宮さんは顔をブンブンと横に振り乱した。
「私には、わかる。私が決して見えない陰から、私が生きてきたなにもかもを否定して、私の友達だった彼女たちの怒りをこれでもかというくらい突きつけてくる。私がなにをしても全てを打ち砕く、憎い憎い憎い、あの陰の声たちのことが。何度も殺してやろうと思ったよ……フフ……フ……でも、私は奴らの居場所も、何者なのかもわからない……」
 来宮さんの言葉は既に感情の乱れで溢れていた。しかしその節々に、共感できる部分がある自分が不思議だった。この人は、意外なほどに僕と似た人生を歩んできたかもしれない。
「聞いて、滝内君。私はあなたに、退院する前に、これだけは言っておかなければならない」
 来宮さんの声は落ち着いたところがなく、ところどころ不規則に震えていた。これは、来宮さんが自分の思いの丈を話すときの口調だった。
「私はね、あなたのことはほとんど知らない。だけど声のことなら、わかる。私はずっとこの声にやられてきた。だからそれを元に勝手に話させてもらう。だけど……これだけは知っておいて欲しい。私は、あなたのことを。一から百まで同情してる……」
 来宮さんが両手で僕の肩を華奢な手でガシッと掴む。小動物のような見た目からは想像できない程の凄い力だった。
「前にもいったけど、私はあなたの人となりを否定したりしない。どんなことを考えたっていい。みんな考えるだけなら自由なの。どんな悪い思想を持っていたって、一向に構わない。だから私は、あの時、自分が、どう生きるつもりなのかを、あなたに主張したかった……」
 来宮さんの言葉には力があり、どこか執念のような物が込められていた。いつの間にか、幻聴がどこからも聞こえなくなっていた。
「あなたがそこまで苦しんでいることを知らなかった。私は……ここにいる間に、なんとしてでもその誤解を解かなければならない! 誰もが、救われる資格がある。私ならきっと、あなたにそれができる」
 来宮さんの息が荒くなる。見開いた瞳が激しく揺れていた。
「人が考えることなんて自由なのに、あなたはこうだと思うことがそのたびに否定されるという。酷い話だよ……そんなの、拷問だよ! 絶対に許せないことだよ。私には、その苦しみが痛いほどわかる。陰の声がどれだけ無惨に私たちの人生を荒らしていくかを知っている。だから私はあなたに、これだけは言っておきたい!」
 来宮さんの息がさらに荒くなる。声はどんどん大きくなってホール中に響きわたっていた。その迫力に僕は圧倒されていたが、同時に、この人が僕のことを極力理解して、大事なことをいってくれていることが理解できた。僕は来宮さんのか細い顔に不似合いな、燃えたぎる烈火の如く鬼気迫った瞳を、痛くなる程に開いた泣きかけの目で追い続けていた。
「人間はね、自分のなりたい人間になればいいの! なりたい自分も自分なんだよ! それが否定されるなんて許されることじゃない。あなたはこれから、生きたいように生きればいい! 誰もがあなたのことを否定するなら、過去を責め続けるのなら、私が認める。許してあげる。そして……勝つんだよ! あなたはなりたい自分になるの。ならなきゃ駄目だ。こんな狂った世界でも、それが許されないんじゃ……!」
「来宮さん……」
 僕は、来宮さんの正気とは思えない勢いの言葉がこれでもかというくらい伝わってきた。この人は僕と同じレベルで話をしてくれていた。いいんですか。どこまでも浅ましくていいんですか。本当に、開き直っていいんですか。僕は来宮さんに、すがるように聞いてみたかった。
「ちょっとあなたたちなに騒いでるの!」
 女性の看護師の小堀が僕たちを止めにやってきた。後ろから野辺も歩いてくる。
「あなたは勝つの! 勝たなきゃ駄目! 勝ちなさい! 過去なんて……燃やしてしまえばいい!」
「ちょっと来宮さん。落ち着いて、ねえ落ち着きなさい!」
 小堀が来宮さんを何度かさすると、来宮さんはようやくハッと目を開いた。
「あ、ああ……」
 来宮さんは前にみたように憑き物が落ちたようになり、たらんと両腕を垂らした。
「ごめんなさい、ちょっと、勢いづいちゃって……」
 来宮さんは我に返ったらしく、いつも通り小枝に留まる小鳥のように穏やかな女性に戻っていった。
「ごめん、滝内君。また好き勝手言っちゃったね」
「いや、いいんです」
 僕はなにか気の利いたことを言いたかったが、言葉がみつからず、ただ頭を下げた。
「言いたいことはもう全部言っちゃったよ。もし訳がわからなかったら、このことは忘れてよ」
「そんなこと、ないです」
「そっか」
 来宮さんはそういって僕に向けて微笑むと、病室の方に歩いていった。
 来宮さんの後ろ姿を、僕はずっと眺めていた。ただただ、とてつもないことを聞かせてもらった気がした。
「勝たなきゃ駄目だ。過去なんて、燃やしてしまえばいい……」
 来宮さんの言葉は、神の言葉の如く僕に力強く伝わった。胸が、目頭が、熱くなっていた。
 生きていればこういうこともあるのか、自分の悩みが、相手の言葉と一致する。こんなこともあるのか。
 その嬉しさは今までになかったものだった。これが共感、というものなのか。
 僕もそれからベッドに戻り、布団を被った。幻聴は、止まっている。
 初めて、心から僕のことを理解した言葉をもらえた気がした。来宮さんが言ったように、僕はなりたい自分に自分はなれていなかった。だけど、来宮さんは僕が苦しんでいたことを百パーセント、認めてくれたのだ。
「僕は、なりたいように、生きていいのか。いいのか」
 いつの間にか僕は布団の中で、声を上げて泣いていた。(つづく)

いいなと思ったら応援しよう!

佐久本庸介
作品をお読みいただき、ありがとうございます! こちらから佐久本庸介のサポートができます。ますます励みになること請け合いですので、もし支援してやろうという方がいらっしゃいましたら、作者は滅茶苦茶喜びます!