精神病院物語-ほしをみるひと 第二十二話
明くる日の午前中。僕は予定通り病院に戻ることにした。
自宅での一日はほとんど寝ているばかりだったが、実家の布団の心地よさを知ることができたのは収穫だった。だけど……。
次はいつ、ここに戻ってこられるだろうか。
僕は不安だった。何故なら、入院してもう一ヶ月半が過ぎたのに、僕は未だに幻聴がよくなっていなかった。ちょっと勢いづけば入院当初と大して変わりはなく、こんなにも治っていない僕が予定通り退院できるとは到底思えなかった。
仮にこのまま退院したとして、どこでどう僕は治って、自由に生きていられるのだろう。
三回、四回と入院を繰り返し、駄目になっていく自分が想像できる。実際にそうなったら想像を絶するほど苦しむはずだ。
母の車に乗りながら、僕は将来の不安と直面していた。病院を出たとき、あれほど素晴らしい感動を呼び起こされた景色も、もう目に入らなかった。
これから、あの病棟に戻る。なにもすることのない、無限の時間を潰さねばならない監獄に。到着が近づくたびに、気持ちが重くなってくる。
病院にたどり着くと、病棟から購買まで買い出しに来た患者が看護師に案内されながら列を成していた。見たことのない人たちだったので、別の病棟の人たちだろう。
帰ってきた。と思う自分に、この小さな社会の一員になってしまったという諦念を覚えた。
受付で手続きを済ませると、病棟に行くように指示された。母と一緒に病棟に行き、インターフォンを鳴らすと、野辺が錠を開けてくれた。
「滝内少年、ちゃんと時間通り戻ってきたね」
マスクをつけている野辺が目元で笑う。僕は錠を潜り、ナースステーションを抜けて病棟に戻ってきた。一か月半過ごしてきた、嫌になるくらい見慣れた光景が広がっていた。僕の仲間といえる患者たちは、やはり外の人たちに比べて力なかった。
「おお、滝内君戻ってきたな」
「寂しかったよーよく帰ってきたよう」
高見沢と木元がそういって僕の元に駆け寄ってくる。思いがけず声をかけられて複雑な思いが交錯した。二人が待っていてくれたことに嬉しさはあったが、同時に待たれていたということに嫌悪感もあった。
「たった一日じゃないですか、おおげさだな」
「滝内君がいねえとつまらねえんだよ。君は統合失調症患者のドラフト一位だから」
「なんですか? ドラフト一位って?」
「そりゃあ活躍が期待されてるってことだよ」
高見沢がガハハと笑っている。やはりこの人もどこかピントが狂ったことをいうなと思った。
ホールでは白髪のおばあさん延岡が猿男と一緒になにかを話している。コンピューターおじさんは相変わらずリモコンと向き合っているし、トカゲ顔の三浦はなにもしないでボーッとこちらを眺めている。白髪の老人がそこらをふらついていて、廊下の方では禿げたがたいのいい男性が今日も仁王立ちしていた。
やはり僕はここの住人なのだ。呆れるほどに馴染んでしまっている。こんなところいつかは出なければいけないと思っているし早く出たい。だけど出られる日はいつになるのか。
帰ってきたからには、居場所は決まっているし行動範囲も知れたところである。僕は頭を掻きながら自分の病室に戻っていった。やはり一日の外泊は短い、と思いながら。
ため息をついて、部屋に入ると僕は常軌を逸した光景に驚愕した。世の中は全く不条理でできているといって間違いなかった。
上下灰色のパジャマを着た長髪の大男が、病室の僕のベッドの前で倒れていたのだ。
なんだ、こりゃあ。
非日常な出来事にはこれまでも結構な回数お目にかかってきたが、こればかりは絶句してしまった。一体どこでどうしてどうなったらこんなことになるんだ。大体この人、誰だ?
僕はその場から一旦離れ、放心状態でナースステーションまで歩いていくと、野辺に病室の惨状をぼそぼそ声で説明した。
「なんだって? 部屋で大男が倒れてる? うわー大変だなあ。ちょっと待ってて」
早いところなんとかして欲しかったが、看護師が揃うまでいくらか時間がかかった。堀が車椅子の患者たちの世話から戻ったところで、ようやく対応してもらうことができた。
大男は看護師二人に体を起こされ、うつろな目をしながら連れて行かれていった。顔をみてみたが、やはり知らない人だった。昨日入院してきた人、とかだろうか。
とりあえず、これで一安心といったところだろうか。
僕は病室に足を踏み入れると、靴に感じる感触に違和感を覚えた。
「なんだ……湿っている?」
僕はいくらか摺り足気味に歩く癖があるのだが、床に靴底がつるっと滑る感じがした。
よくよくみたら床一面が濡れている。しかもこのおぞましい臭いはなんだ?
ゴミ箱をみるとゴミと一緒に液体がたまっていた。この世で一番汚いものだと思えるほどだった。
とりあえずこれで大体わかった。あの大男は、ただ倒れていただけでなく、ここでいたしていたのである。
「ふざけんなよ……畜生」
僕は眩暈を起こしながら、とにかくモップを持ってきて床を拭くことにした。
「くそっ! くそっ! なんでこんなことに!」
僕は理不尽さに苛立ちながらひたすらモップをかけた。それから消毒をしてもらったが、あの大男が尿を漏らした部屋だと思うと安心していられなかった。
しかし夜は、ここで寝るしかなかった。戻ってきた先からこんなものなのか。少なくとも結構なトラウマにはなるだろう。
ここはまともな場所ではない。僕はやはり、この病棟から脱出しなければならないことを再確認した。そう、なんとしてでもだ……。
恐れていたことはその通りに進んでいった。外泊が終わって、入院生活に戻った僕は早速無限のようにある時間を潰すのに追われていた。
寝ているか、ホールに行って絵を描くか。誰か話す人を探して、適当な人がみつからず、諦めて病室へ戻っていく。
「こんなものなのか」
毎日、本当になにも起こらない。無為に過ぎていく時間に、あきれ果て、時には焦りを感じる。
僕が学生時代に関わった人たちは、どうしているだろう。良い奴も嫌な奴もいたけれど、あの時は自分にだって可能性があった。今だってあるはずなのに、それが掴めない。
馬鹿にされた記憶が呼び起されれば殺意を覚え、優しく接してくれた友人のことを思うと、自分の今の姿がただただ悲しい。
ネガティブは、考えればキリがない。疲れ果て、寝て、また起きた時、僕はやはりなにかしなければならないと思った。
病棟には一台麻雀台が置かれている。患者が遊ぶために置いてあるのだろうが、なかなかそんな気力もないので、僕が入ってきてから誰も使っているのを見たことがなかった。
しかし何度も言っているように病棟での生活は暇である。それも活用できない暇なので、そこにいるだけで気持ちが暗くなっていく。そこで僕は高見沢に提案し、木元、延岡を交えて麻雀をして時間を潰すことにした。
高見沢の部屋に麻雀台を運び、牌をジャラジャラと音を立てて混ぜていく。なんだか新しいことをしているようで、珍しく僕の気分は高ぶっていた。
僕は、一応麻雀のルールを知っている。親父がやっているのをみて、なんとか基本ルールと手の形を記憶することができた。だが得点を数えることもできなければ、勝つ方法だって知りやしない。だから腕に自信など持ちようがないが、一時楽しめれば十分である。
「なあ、賭けるものがないとつまらねえだろ。なにか賭けよう」
高見沢が提案する。この病棟で賭博は当然禁止されていた。
「いや、んなことしちゃ駄目でしょ」
「滝内君は固い。固すぎるわ。賭けない麻雀なんてなにも面白かねえ」
高見沢がしかめっ面をしていう。賭けない麻雀がつまらないという発想が自分になかったので意外だった。
「うーん。そういうことなら僕は先週号のヤングジャンプを賭けますよ」
「よし来た。なら俺はこのボトルキャップを賭ける」
高見沢の持っているゼプシマンのボトルキャップは取手の部分を回すと「ゼプシマーン!」と音が鳴る。もちろんこんなものは少しも欲しくない。僕が賭けるヤングジャンプも何度となく読み返した後、病棟のホールに寄付するような代物だから惜しくない。
「お、俺はこの煎餅を賭ける」
「私は折り鶴を賭けるよ、あとで部屋から持ってくるから」
「みんなろくでもねえもんばっか出して来やがったな。まあいいや、やろうか」
じゃらじゃらと麻雀稗をかき混ぜると、僕は二段の麻雀牌を十七列にして並べ始めた。十七列に並べた牌を持ち上げて二段に重ねる時の手つきが慣れないが、木元や延岡よりは余程上手くやっていた。高見沢は普通に麻雀ができるらしく、他の二人の分まで整えてやっていた。
サイコロを振って親を僕に決めると、僕がもう一度サイコロを振って、それからそれぞれ牌を取っていく。十四牌の手牌を並べてみると、中の牌が最初から三つ揃っていてなかなかよかった。これが揃っているとあがった際の点数がよくなる。
しかしろくに経験のない僕は微妙な引きに翻弄され、捨ててはいけない稗を捨ててしまうこともあってグダグダな麻雀運びに終始した。他の打ち手も冴えない感じで、結局決め手のないまま流局となり、しかも誰一人としてテンパイできていなかった。
次の局では最初から手稗が冴えない。一九牌という使いにくい牌が嫌な感じに固まっていて、どうにも活路が見いだせない感じだった。
「なんだい、延岡さん、牌が一個少ないんじゃねえか?」
高見沢が延岡に指摘する。気づけば延岡の牌が十二牌になっていた。基本十三牌、一個引いたときに十四牌になっていなければおかしいので、延岡はどこかで引きを間違えたのだ。
「これじゃこの局は上がれないよ。チョンボになっちゃうよ」
「やだねえ。麻雀って難しいわあ」
「まあとにかく続けよう」
その局は高見沢がツモ上がり、僕は千三百点を失った。他の二人も七百点を失っている。
これで二局目が終わったが、だんだん僕は疲れてきていた。麻雀というのは思いの外、精神力を使うのだ。自分が必要な牌を常に見張っていなければならないし、リーチをした後は特にこれだという牌に神経を集中させねばならない。捨てる牌を考えるだけでも単純に考えていたら振り込んでしまう。あらゆる可能性を考えねばならない、難しいゲームだと思った。
だんだん息が荒くなってきた。もうヤングジャンプなんて高見沢にあげてしまって部屋に戻りたい。そう思っていたときだった。
「おい、木元君どうした? また具合悪くなったのか?」
気づけば、木元の顔から血の気が引いていた。木元は震える両手の指をみつめながら、ガタガタと首を振っていた。
「駄目だ木元君休まなきゃ。もう終わろう。仕方ない」
明らかに体調を崩した木元は高見沢に肩を貸され病室に戻っていった。麻雀は途中で中断し、それっきりメンツが集まることはなかった。自分の体調が麻雀に耐えられないこともわかったので、それはそれで収穫かもしれない。(つづく)