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精神病院物語-ほしをみるひと 第十一話

 入院から一ヶ月が過ぎ、それまで止まっていた幻聴は僕の入院生活に陰を落とし始めた。
 今日は月曜日、主治医が病棟に来る日だった。その日も食事が終わった頃から、奴らの声が聞こえた。
「ふざけんなよてめえ」
「あんな悪いことして出られると思ってんのか?」
「一生ここに入ってろよてめえ」
 僕は、今から主治医に早く退院させてもらうようせがむつもりだった。奴らはそれを知って、激しく責め立ててくる。耳を塞いでも僅かに聞こえる。その僅かな声が、僕の精神をズタズタにしていく。
 よくなっていない。僕は少しもよくなっていない。それなのに退院させてくれ、と訴えるのは正しいことなのだろうか。
 それでも僕はホールの椅子に座って、主治医が来るのをじっと待っていた。たとえ矛盾していても、苦しみに満ちた入院生活がそうさせるのだ。
 僕の病室の近くの廊下では髭を生やしたおじさんが仁王立ちしていた。何故あんなことをしているのか不思議だが、僕も時間を潰すために延々と廊下を歩くことがあるので似たようなものかもしれない。
 ホールの席ではいつものようにポツリと何人かの患者が座っている。高見沢と木元がポーカーをしていたが、木元が具合悪そうにしていてすぐに止めてしまった。
「木元君、具合悪いなら休むか? そうか、休むな、うん」
 高見沢が木元と一緒に病室に戻る。木元はやはり転びそうなくらい前屈みで歩いていた。今日は顔が青ざめていて、今にも倒れてしまいそうだ。
 調子が悪ければ本当は訴えなければならない。だけどそれをいえば、きっと退院は延びる。もし入院期間が一ヶ月上乗せされでもしたら、僕は気が狂ってしまうだろう。
 ナースステーションから誰かが出てきたのに気付いた。どうやら主治医が来てくれたのだ。僕は慌てて主治医の方に駆け寄った。
「こんにちは。どうですか、調子は」
「先生、もう入院して一ヶ月になります。もう僕は……ほとんどよくなりました」
 僕はそういっていつものように「退院の時期は決まらないでしょうか?」と主治医にせがんだ。
「また嘘ついてるよこの人」
「外に出たらどうなるかわかってんのかこいつ?」
「楽しみだよね」
 薄ら寒さを感じる肌に冷や汗が滴り落ちた。追いつめられている一方、主治医の前では元気を装っていなければならない。
「滝内さん、すぐに退院というわけにはいきません。ここまで上手くいっているので慎重に行きます」
 またか、と僕は失望した。だが主治医の言葉には続きがあった。
「ですが順を追って、外泊などは考えていっても良いと思います」
 それを聞いて僕はおやと思った。外泊とは、入院中の患者が一旦数日間自宅に戻って過ごすことをいう。これは僕にとって朗報だった。数日間とはいえここから出られるし、確実に退院への段階を追うことになるのだ。
「いつですか? 外泊っていつやるんですか?」
「そこはまたご家族との調整もありますので……滝内さん? ちょっと顔色が悪くないですか」
「いえ、大丈夫です。とにかく、なるべく早く外泊をさせてください」
 主治医はなにか異常があったらすぐ看護師にいってください、と言い残し去っていった。見抜かれたのかもしれない、と思った。
「あいつどこまで図々しいのかな?」
「嘘ばっかだよね」
「鼻で嘘をしゃべってるんだあいつ」
「あああの鼻がね」
「まさかあいつの正体が鼻だったとはねー!」
 鼻? 鼻だって。僕は鼻で嘘をついているっていうのか?
 僕は意味不明の言葉に惑わされ、本気で自分の鼻について悩み出した。自分の鼻から、しゃべるより前になにか声が出ているのではないかと。
 駄目だ。僕はおかしくなってしまっている。おかしいのがわかっているのに、あいつらになにか言われると本気になってしまう。どうしてあんな声に僕は操られてしまうのだ。
「鼻がなんかいってるぞ」
「キモ」
「人間ってあそこまで最低になれるんだね」
 今日は異常だった。追い込みをかけるように幻聴が襲いかかってくる。まるで僕が退院するのを阻止すべく仕組まれていたのではと思うくらい、爆発的な幻聴の嵐だった。
 入院前、幻聴は僕を本気で殺しにかかってきていた。あれこそ悪魔と呼んで差し支えない。そして今、状況は当時に近くなってきている。
 僕は頭を抱えながら、病室に戻った。爆発頭の患者が息を荒くして眠っている。それでもうめき声に比べれば静かな物だった。
 僕はベッドにあがると布団にくるまり、必死で声をやり過ごした。
「惨……だねえ」
「このまま死……でしょ」
「……ったらおしまいだよ」
「ああは……たくないよね」
「なんだか……そうになってきたよ」
 微かに聞こえる声が、自分の中で形を成していく。
 惨めだ。このまま死ぬでしょ。ああなったらおしまいだ。ああはなりたくない。なんだか可哀想になってきた。全て相手を悉く否定する、残酷な言葉の数々だった。
 この世は醜い言葉で溢れていて、醜い言葉を使う人たちから迫害を受けて、僕はこんなところで落ちぶれてしまっている。
 僕は力が欲しい。自分を貶めるあらゆる悪意をはねのける力が。何者にも負けない強い精神が。
 体が寒い。震えが止まらない。自分の弱さが、自分たちの醜さに気づかず人を嘲り笑う連中が……憎い。
 声に責められ、僕の心は荒れ果てていく。(つづく)

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佐久本庸介
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