精神病院物語第二十一話

精神病院物語-ほしをみるひと 第二十一話

「うおおおおあああああああっ!」
 叫び声とともに目が覚めると、夕飯の時間になっていた。僕は息を荒くしながら目をこすり、身体をゆっくりと起こした。
 今のは、夢だ。とても悪い、夢……。
「なんて目覚めだ。ずっと考えないようにしてきたのに」
 布団は体に馴染んでいる。この上なく快適な睡眠に入ったはずなのに、入院中でさえ見なかったような悪夢が呼び起された。
 とにかく。これは夢だ。もう、考えなくてもいいことなのだ。
「やめろ。考えるな。考える必要はない。だって、終わってしまったことなのだから……」
 何度も自分を洗脳するように言い聞かせるが、本気で思っていないことは明白だった。
 落ち着くまで大分時間がかかった。ここは僕の部屋だ。本棚には漫画がずらりと並べられ、机には画材が。この世で一番安心できるはずの場所に、今、僕はいる。
 気分というのはとても大事なものだ。これだけ条件が揃っていても、今はなにもする気になれなかった。
 耳を澄ますと、奥の部屋でテレビの音がする。どうやら父が帰ってきているようだった。僕は少し躊躇したが、気分を変えるタイミングとしてもちょうどよかったし、顔を見せにいくことにした。
 部屋に入ると、父は既に黒いパジャマを着ていて、安楽椅子でくつろいでいた。手元には灰皿が置いてあり、今も煙草を吹かしている。
「おーう。正高か」
 父は嬉しそうに眉を上げて笑うと、片手に持っていたリモコンのボタンを押して音量を下げた。テレビには今年の大河ドラマが流れている。
「旅行に行く前から心配だったが、やっぱり駄目だったか。まあ仕方ないな」
「ごめん。どうしても病気を抑えられなかった」
 父は煙草を灰皿に置くと、コップに口をつけた。こちらは多分焼酎が入っている。
「病気がなんだ。そんな病気は気合いで治せばいい。とにかく今は治すことに専念するんだぞ」
「それは、治したいけど」
「治すって強い気持ちを持たなきゃ駄目だ。俺は治るんだ! ってな」
 父は昭和の人間である。努力や気合いで、いろいろなことをなんとかしてきた人だった。
「お前、結局もう大学は行かないのか?」
 父が一番したくない話題を振ってきた。僕はとっくに中退した気分でいて、周りにもそう吹聴していたが、実際はまだ休学しているだけで、大学に籍が残っていた。
 しかしもういろいろな意味で無理だろうと思っていた。自分の身体がどうしようもない状態なのは僕自身が一番よくわかっている。
「もう、駄目だと思う」
「残念だな。言っとくが、親が子供に与えてやれるのは学力だけなんだ。せっかく入った大学、大事にした方が良いと思うんだが」
「悪いとは思ってるよ……だけど」
「良いから病気を早く治せ。そうじゃなきゃなにも始まらない」
 僕はもっと話したいことがあるはずだった。だけどいざ話してみると、したくない話題ばかりになりがちで、都合の悪い方向に会話は進んでいった。
 そのとき、玄関を開ける音が聞こえた。誰かがこちらの方に歩いてくる。振り向くと、三人いる兄のうちの一人、満が大きなショルダーバッグを背負いながら入ってきた。
「お、正高じゃん。身体大丈夫? もう治ったの?」
 満が白い歯をみせて笑う。満は病弱で、小学校の頃は風邪ばかり引いていたが、歯だけは全校集会で表彰されるほどに健康そのものだった。中学に入ってからは身体まで強くなり、高い背を生かして、高校ではついにバスケ部の主将にまで上り詰めてしまった。
 今では地元の大学二年生。久しぶりに目にする満は身体に躍動感があって、目がこの上なく輝いていて、直視できなかった。
「親父、パソコン貸してよ。レポート作らなきゃいけなくて。ゼミの教授が厄介な爺でしっかり作らないと単位もらえないみたいでさ」
「おう使え使え。なんならプリンタも使っていいぞ」
「いつも悪いね。パソコン欲しいんだけど金なくて」
「気にするな。大学生はまず勉強しなきゃダメだ」
「でもこれ終わったらバイト増やすつもりだけどね」
「バイトか。今度俺の畑も手伝ってくれ」
 僕は魂が抜けたように、二人の会話を聞き流していた。
 レポート、ゼミ、教授、勉強、バイト……!
 自然と体が震えだしてくるのがわかった。生き生きと今の生活を語る満をみていると、急に自分が惨めになってきたのだ。
 満はなにかと僕によくしてくれる良い兄だし、僕がどれだけみっともない思いをしていても、彼なりに変わらない態度で励ましてくれる。
 だけどそれがわかった上で、僕はどす黒い気持ちを抑えられなかった。
 言ってしまえば、これは嫉妬である。大学生活がダメになった僕は、大学で楽しくやっている満が羨ましくて仕方がないのだ。
 満はレポート作りに集中し、父は旨そうに煙草を飲んでいる。僕は気づかれないくらいに静かに、そこから去って自分の部屋に戻っていった。
 それから毛布にくるまり小さくなっていた。恥ずかしくてこのまま消えてしまいたかった。この世界で輝く光をみせつけられて、自分の惨めさを思い知らされて、救いようのない劣等感に耐えねばならなかった。
「畜生、畜生……」
 布団に顔を押しつけて、行き場のない悔しさを声に出してみる。全身の力で押し殺さなければ狂ったように叫び出していたかもしれない。
 恥ずかしさをなんとかやり過ごすと、ずしりと重苦しい倦怠感が襲ってきた。母が夕食はできていると僕を呼んでいるが、食欲が湧かなかった。だけど生活習慣を崩さぬため、しっかり食べねばならないのはわかっていた。時計をみるともう二十一時に近かった。
 しばらくして冷静になった僕は、少し発想を変えてみた。
 僕はまだ大学に籍がある。だから可能性としては、まだ復学する可能性はゼロではないのだ。
「たとえば……大学に籍を残して、一年、二年後に復学する。当時の学生は皆、上の学年に進学していて、三年、四年は大方卒業していなくなっている。半分の学生は僕のことを知らないし、残りの半分も大して覚えてはいないだろう。多少行き遅れたところで、大学に戻ってやり直したっていいのではないだろうか? そういう道もあるのではないか?」
 僕が独り言をしながら自分の考えをまとめていると、不意に邪気を感じた。
――許さないよ……?
 胸寒くなるようなドスの利いた声が聞こえてきた。短い言葉のように滲むような憎しみが込められていた。
 僕が自分なりに描いてみたイメージは崩壊し、虚しい静寂が訪れる。ただただ、寒い。
 突き刺すような無力感を胸に、僕は呆然とし、次第に乾いた笑いがこみ上げていた。
 はは。
 はははは。
 はははははは……。
 どうやら、駄目みたいだ。(つづく)

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佐久本庸介
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