精神病院物語第十話イメージ

精神病院物語-ほしをみるひと 第十話

「逃がさないよ?」
 背中から刃物で貫かれたような衝撃に襲われた。ハッと振り向いたが、誰もいない。
「お前みたいな悪い奴許す訳ないだろ?」
「退院できると思うな。してもまた入院だよ」

 入院してからのある時期から、ヘンテコな呼ばれ方をするようになった。
「少年! 今日は筋トレするぞ筋トレ!」
 看護師の堀が大柄な体を揺らして僕のことを「少年」という。どうもあれから江上が広めてまわっているらしい。その結果、看護師も、他の患者も、みんな僕のことを少年と呼ぶようになってしまった。
 僕はテレビがある畳のスペースに入り、堀の指導の元、腕立て伏せをやらされていた。別に普段からやっているわけでなく、堀が思いつきで今日初めて言い出したことだった。
 高校時代は卓球をやっていた。毎日台の前をフットワークで跳ね回り、筋トレも結構していた。今では完全になまってしまったが、やれといわれれば嫌ではなかった。
 そういえば前に入院していた病院の閉鎖病棟で、僕より一個下の男子が毎日筋トレをしていた。「体脂肪率を0パーセントにする」と意気込み、日々逞しい体を養っていた。
 彼は「退院したらアイドルになる」となかなかどでかい発言をしていたが、そのために毎日筋トレをして体を鍛えているのは凄いと思った。僕はなにもかもが嫌になり、ずっと部屋にひきこもっていたのだ。
「いいぞ少年! 次は腹筋だ。15回を2セット。できるか?」
 少年、少年……このまま定着してしまうのだろうか。僕は堀が押さえている足を軸に腹筋を繰り返す。
「やるな少年。次でラストだ。背筋10回を2セット。ガンバレ!」
 畳と床の境目の段差を利用して、僕は背中の筋肉で体を持ち上げる運動を繰り返した。
「よくやった少年。これを毎日続ければ……退院する頃には滅茶苦茶元気になってるぞ!」
 確かに身体は強くなると思うが、多分習慣にはならないだろうと思った。筋トレを継続する気力がないし、やらなきゃいけないことを思うと胸が苦しくなるのだ。本来やりたくなるはずの絵描きですら辛いのだから、自分としては火をみるより明らかな流れだった。
「滝内少年なかなかやるね。意外と体強いんじゃないの」
 バンドマンの看護師の野辺も見物しにやってきた。看護師も空いている時間はしばしば患者と交流する。煙草部屋では特にその傾向が強いだろう。
「そういえば今日の昼頃、滝内君の隣に新しい人が入ってくるよ」
 それを聞いてビクッとした。この数日間。部屋を一人で使えて気が楽だったが、ついに新しい患者が入院してくるようだった。
「心配しないで大丈夫だよ。お父さんみたいな人だから」
 お父さんみたいな人というけれど、一体どんなお父さんなのだろう。穏やかで静かでマナーをわきまえたお父さんならいいのだが。
 筋トレが終わると、しばらくすることがなくなり、僕はホールでテレビをぼーっと眺めていた。この時間は主婦の楽しみみたいな番組しかやらない。十五時を過ぎた頃に過去の人気ドラマの再放送が流れるので、それなりに楽しめるようになる。
 突然、病棟の外から看護師二人が誰かを連れてやってきた。上下褪せた緑色の服に、爆発したように逆立った白髪頭。感情が感じられない黒く濁った目。
 ウウーウウウーとうめき声をあげながら、彼は病室へと誘導されていった。入ったのは僕のいる部屋である。
 あの人なのか? 僕の部屋に入る新しい患者というのは。
 無駄に別の可能性を探ってみたが、どうも認めざるを得ないようだった。
 今、通り過ぎていった彼の状態をみる限り嫌な予感しかしないが、ここでの生活はそんなものだろう。それよりこの先あの人と一緒にやっていけるのだろうか。お互い個人プレーに走って楽ができればいいのだが。
 それからしばらく、部屋に戻る勇気がなかった。落ち着かない心でテレビを観ながら時間を潰し、それから昼食になった。
 その日のメニューは蕎麦とかき揚げだったが、病院の蕎麦はこしがなくてまずい。かき揚げもふにゃふにゃな食感なので刺激に欠ける。老いも若きも食べられる食事ということでそうするしかないのだろう。
 食事を終えたところで、ちょっと怖いが病室に戻ることにした。あの新しい患者とはこれから短くない期間一緒の部屋で過ごすわけで、それなりに上手くやっていかねばならない。
 爆発頭の患者はベッドに座ってスヒースヒーと息を荒くしていた。これは相当調子の悪い患者だと思った。
「初めまして」と声をかけてみた。彼は少し僕に目を向けたが、すぐに目線をそらしてスヒースヒーと息を荒くするばかりだった。
 まるで話が通じないではないか。
 取り付く島もないが、こうなると前の住人たちのようにほとんど関わらない方針で行くしかないだろうか。
 しかしそのときはまだ考えが甘かったのだ。その日の消灯の時間、布団に入ってからのことだった。
「ウウーウウウウーウウウースヒースヒィーウウー……」
 爆発頭の患者はもの凄く聞き苦しいうめき声を上げながら、一向に寝入る様子がなかった。それを聞いていると僕も安心して寝られなかった。
「ああ! くそっ、なにがお父さんみたいな人だよ……」
 このうめき声は彼にとってどうしても必要な物なのだろうか、止めろといって止められるものなのだろうか、どうにも判断がつかず、僕は一旦部屋から脱出した。

 混沌とした病室から退避した僕は、とりあえずトイレに入って用を済ますことにした。
 夜のトイレはどこかひんやりとした雰囲気があった。闇のかかった白い壁に心地よい静寂。世間から隔絶された場所で、永遠の時がそこにあるような、神秘的な気持ちにさせられる。
 だが今日に限ってはそんな気分にもなれなかった。隣のベッドの患者とこれから共存していかねばならないと思うと、煩わしい気持ちにさせられた。
「ったく冗談じゃないぞ」
 チャックを開けてとりあえず用を済ませる。出す物を出してしまえば少し気分はマシになった。少しこの静けさの中で頭を冷やすことにした。
 思えば入院して、もう一ヶ月近くになるだろうか。当初苦しめられていた幻聴は止まり、薬の副作用に苦しみながらも、体調的には落ち着きつつある。
 なんだかんだで他の患者たちとの交流も増えていて、良い方向に行っているのではないか。
 もちろん辛い。毎日有り余る時間に苦しみ、押しつぶされそうだ。一日でも早くこんなところは出てしまいたい。
 だけど今の状態なら、そう遠くない日に退院できるのではないか、と期待している。長い入院生活の中で、自分の可能性に対して、少しずつ前向きになっているかもしれない。
「逃がさないよ?」
 背中から刃物で貫かれたような衝撃に襲われた。ハッと振り向いたが、誰もいない。
「お前みたいな悪い奴許す訳ないだろ?」
「退院できると思うな。してもまた入院だよ」
 幻聴だ。ずっと止まっていたのに、どういうわけかまた復活したのだ。その声は、僕を本気で追いつめようという憎悪に満ちていた。
「どこからでも見えるよ。丸見えだよ」
「お前は一生このままだよ」
「もうここにいても違和感ないから」
「この調子で廃人にしてやるよ」
 声が聞こえるたびに僕の胸から生気が削げていく。許さない、逃がさない、死ね、自殺しろと、あらゆる脅しで僕を責め立てる。
「やめろ、やめろ……嫌だ。助けてくれ……」
 僕はトイレの隅でへたり込み、自分がどうしようもない敵に憑かれてしまっていることを再確認した。
「出さないよ」
「出られるわけねえだろ」
「終わってるねこいつ」
 逃げられない。どこまでいっても逃げられない。僕は少しも、よくなってなんかいなかったのだ。
 このままでは退院しても、また病棟に叩き込まれてしまう。一時的に消えていても、少し調子がよくなったところであいつらは戻ってくる。
 僕は体を震わせ命乞いをした。返事は、なにもなかった。(つづく)

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佐久本庸介
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