精神病院物語第三十三話

精神病院物語-ほしをみるひと 第三十三話

 午前中をデイケアで過ごすと、昼休みは一度病棟に戻って昼食を取らねばならない。だからそのたびに看護師が付き添いで、病棟とデイケアを往復するのだ。
 デイケアのプログラムは本当に緩いものばかりだが、真面目に二時間余り参加してみると、思っていた以上に疲れるものだった。病棟の退屈地獄も辛いが、活動して疲れるのも辛いものだ。時に調子を崩して休憩室で休んでいなければならないこともあるし、スポーツの時間に見学に回ることも多い。
 僕はだんだん、リハビリはリハビリで、今後苦労していくのだろうということがわかってきた。
 先のことばかり考えても仕方がない。しかしその間近のリハビリが、途方もない道程だということがわかってしまい「大変だよ、これは」と一人ため息をつくのだった。
 僕は昼食を食べ終わると、昼休みの残り時間を持て余していた。持て余すのに慣れきっているので、これくらいはどうということもなかった。
「こんにちは。少年」
 久しぶりに江上が声をかけてきた。この前の太郎の件で泣き崩れていた様子が思い起こされ、僕は心配だったが、今日の江上は晴れ晴れとした表情をしていた。
「元気みたいですね」
「あはは。あのときは嫌なところみせちゃったかな」
 一時、江上は酷く不機嫌そうに「自分は二重人格だ」といっていたが、あれは単に太郎の症状が悪くなっていたのが原因だったのだろう。江上が太郎と接触したのをみたのはあの時が初めてだったので、距離をとっていたことは間違いない。
 しかしあれだけ激しく泣いていたところをみると、本当は心配で、複雑な思いもあったのではないか。
「大丈夫、ですか?」
「うん。平気」
 今でもこの人が太郎の娘で、高見沢の妹だということが信じられなかった。あれから高見沢と江上が話している姿も見ていない。兄妹としては寂しい関係だと思った。
 太郎は病棟に戻ってこなかった。生死も、僕は知らない。だけど高見沢と江上が病棟から離れたわけでもないので、一命をとりとめたのかもしれない。
「実は少年にお別れを言いにきたんだ」
 フッと胸に寂しさが去来した。
「退院されるんですか?」
「うん、今日、旦那が迎えに来るから」
 寂しい、と思うのは間違いだろう。いずれ患者は病棟から退院するべきなのだ。新たな門出を喜ぶのが正しい考えだ。
「本当に、よかったですね」
 江上が狐目を細めて笑った。そのお日様のような明るい笑顔を見て、なんとなくこの人はこのまま幸せに生きていける気がした。
「江上さんに色々と声をかけていただいて、僕はこんな病棟でも明るい気分でいられました」
「いいよそういうのは、恥ずかしいから」
 江上はそういってはにかんだ。
「いや、本当に助かったんです。僕はこの通り暗い性格で、自分から人に声をかけるような人間でもありません。だけど江上さんは明るく話しかけてくれて、話すことも凄く明るくて、僕の頭がおかしくなりそうなくらい辛い病棟生活も、少しだけ楽しい気分になれたんですよ」
「頭がおかしくなりそう、って凄い言葉使うね。でも、全くそうだね。同感だよ」
 そういって江上がハッと目を開いた。
「そうそう、思い出した。実は私ね、少年と同じで読書好きなんだけど、少年は岩窟王って本は読んだことあるかな?」
 突然江上が本の話を切り出してきた。そんな本は読んだことがない。というか僕はちっとも読書好きではないのだ。少なくとも今まではろくに本も読んでこなかった。
「そうなんだ。巌窟王は結構シビアな話でね。無実の罪で牢獄に閉じこめられちゃった人の話なんだけど、私はその本が入院中の支えになったんだ」
 それを聞いただけで少し興味がそそられた。無実の罪で閉じこめられるなんて、閉鎖病棟に入院している僕らには共感できそうな話である。
「悪人に陥れられて、信頼した人にも裏切られて、助けが来る希望もなくなって、牢獄に閉じ込められる中でなにもかもに絶望する。息が詰まるような感じに凄く共感したね。その人に比べたら私はマシだけど、本当に……長かったよ」
「その人は助かったんですか?」
「ネタバレになっちゃうから言わないけどさ。退院したら読んでみて」
 江上はそういった後「ただね、その人は牢獄の中で、一つだけ希望をみつけたの」と付け足した。なんだか意味深な問いかけだった。
「その希望ってなんですか?」
「人、だね」
「人」
「こんな場所でも、私はいろんな人と話すことができるんだって、その本のおかげで思えるようになったよ。少年はきっと大丈夫だから、頑張って病気治して元気になってね」
 江上はそういって席を立つと、病室の方に戻っていった。
 もう会うことはないのだろうか。デイケアから戻るときには、もう退院を済ませていなくなっているのだろう。
 寂しくなるな、と思った。あの人にもこの数か月、色々なことを教えてもらって、時に強い感銘をもらってきた。
 江上はこれから治療をしながら夫を支えるため、外の世界でそれなりに苦労して生きていくことになる。それはきっと平坦な道ではない。なにもしてなくても、なにかすることがあっても、険しい道を通っていることに違いはない。
 母親になって子供を抱いている江上の姿を、一瞬想像した。そういう未来も、当然あるだろうか。
 気のせいかもしれないが、僕はどこか達観したような気持ちになっていた。
 なにもかもが上手くいったらいいのになあ、と思う。ぼーっとした頭で、それだけ思う。
 外の世界では、年度の終わりが近づいている。季節が変わるように、病棟世界も移り変わっていくのだろうか。
 春が、訪れようとしていた。(つづく)

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佐久本庸介
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