引地と北のあいまいなハタチの記憶 #2
20周年スペシャルコンテンツ 引地と北の「あいまいなハタチの記憶」
このコンテンツは今年12月19日にデビュー20周年を迎えるRAG FAIRとINSPiの歴史を、メンバー引地洋輔と北剛彦が振り返るものです。RAG FAIR、INSPiの活動で思い出されるキーワードとともにその年の活動を掘り下げていこうと考えてはいるものの、人の記憶はあいまいにつき・・・。
後に他のメンバーやお客様から記憶違いをご指摘いただくことも大いにありそうな、そんなリレー記事。毎月半ばと末に更新予定です。特設サイトのHISTORYも合わせてご覧ください。今回はINSPi北剛彦の執筆。
#2 「スケジュールンで紐解くデビュー前後」 INSPi編(2001年)
スケジュールンをご存知でしょうか。ミスタードーナツのキャンペーンでスクラッチカードのポイントを貯めると手に入るスケジュール帳です。
2年を数える地元静岡の浪人時代からINSPiに加入し活動をする学生時代、ミスドは何度もコーヒーをおかわりして仲間とだべるのにちょうどいいお店でしたので、自然とポイントもたまりいつの間にか手に入れていたスケジュール帳。ここにはデビュー当時のあれやこれやがつまっています。
(↑ ZEPPのつづりを間違えたデビューライブ当日のスケジュール)
このスケジュール帳を眺めながら、当時の事を振り返ってみましょう。
坊主頭の大学生がCDデビューするまで
デビューまでの流れとしては、当時アカペラグループでは珍しかったオリジナル曲を演奏する関西のアカペラカリスマとしてのハモネプ出演をきっかけにCDデビュー。これがINSPiとしてのプロモーショントークではあります。しかし、いろんな場所でお話してきたこの共有事項のまさにその時、北がどう思っていたかまでを細かくお伝えすることは今までになかったはず。
INSPiはデビューを迎えるにあたり、実はある種の危機状態でした。メンバーどうしよう……
当時のハモネプ出演をご覧いただいた方は記憶にあるかもしれません、INSPiは6人組のバンドとして出演していました。北は丸刈りにサンダル、テレビに出るのだから失礼のないようにという間違いだらけの気遣いに、今でも顔から火がでそうです。
この出演をきっかけに「CD出してみない?」と現在の事務所にお声掛けいただいたわけですが、当時はボイスパーカッションはライブごとに毎回ヘルプメンバーという立ち位置で置いていて、タカフミもそういう状態でした。また、現在はアンリミテッドトーン、ルースフォンチとして活躍中の岡ちゃんも、INSPi創始者のひとりではあるけれども音楽性など様々な理由でINSPiとしてはデビューしないと決めたため、結果4人でデビューすることになります。
メンバーによってデビューにかける思いの強さや本気度の差はありましたが、北は「CD出しませんかと言ってくれてる人がいるし、とりあえず出してみようよ」ぐらいのつもりでいました。まさか20年続けて今や生きがいになっているとは。「INSPiが好きって言ってくれてる人がいるし、死ぬまで歌おうよ」今はそんな思いもあります。
あれよあれよと進んでいくシングル「Cicada’s Love Song」の制作。杉田の超絶甘いセミのバラードがデビュー曲と決定すると、大阪と東京を行き来して、それまではしたことがなかったスタジオに入って一人ずつ録音する作業に四苦八苦。
(↑ スマホもない時代ですから集合場所の事前確認大事です)
「え!夕ご飯の出前は制作費から出してくれるんですか!ならば大盛で!」とか、一曲録っては「俺テストだからいったん大阪帰るね!」なんてのんきなやり取りをしていたことを思い出します。若さがなせる全能感・余裕感。ノリだけで突き進む当時の自分がまぶしくてたまりません。いや、大盛は今でもですが。
「通りすぎた雨の後で」を聴くとよくわかるのですが、実は岡ちゃんの声もレコーディングされているんですよ。「花~すべての人の心に花を~」については、テスト終わって他メンバーの録音終わりの音源を改めて聞いてみたら、尺構成が変わったりしててびっくり。レコーディングも流れてどこどこ行くの、と思ったものです。
スケジュールンとともに使っていたノートには、レコーディングの様子がイラストで残されていました。
(↑ シケイダを主張する杉田)
「Cicada’s Love Song」の読み方についてレコーディングの現場で議論が交わされました。Cicada’sは英語の発音的には「シケイダズ」が近いのですが、日本語の「死刑」に聞こえてしまう心配がスタッフの間で持ち上がり、「シカダズ」と読もう、ということに。今思えば納得ですし、ノータイムでそうしましょう、となるような提案に杉田が噛みついていた様子が見て取れます。
いいね!そういう噛みつき最高にいいね!現在ではINSPiマネージャーも務める北にとって、波風、波乱、アクシデントは大好物。メンバー間スタッフ陣との調整は俺がやるから、言いたい事やりたい事どんどん言っちゃって!そこから生まれるものが絶対あるよ!今ならそう声をかけてあげたくなります。
(↑ CicadaPV撮影の一幕)
Vocal Night#7で謝罪を受けた記憶は飛んでいる
デビュー当時の事を思い返すと、「流されるまま」という言葉がしっくりきます。時代の流れ、周りの流れ、とにかく溺れないように浮いていられる姿勢を探していた、そんな感じです。
「INSPiはいつ見ても歌っているね」現場で会うすべての人がそう言っていました。「すごいね・えらいね」もあれば「ちょっとうるさいよ」もあったと思います。
デビューライブ日程が決まったよ、RAG FAIRとやるよ、シングルリリースの日だよ。それまで自分たちですべてを決め、自分たちですべてを進めてきた学生バンドにとって、その急流の中でしがみつけるものは、自分たちの歌だけだったのかもしれません。
2001年12月19日、Zepp TOKYOでのデビューライブ、RAG FAIRが持ち時間を大幅に超えて、INSPiの曲数が減ったという事実は何となく覚えていますが、洋輔さんから丁寧に謝罪を受けたかどうかの記憶は飛んでいます。
覚えているのは、コラボパートの曲で同じパートを歌う洋輔さんとユニゾンがうまくいかずに、ステージ上で顔を見合わせ苦笑いしたこと。ハモるのって難しくて楽しいね、歌の中でそう伝え合ったような気がして、勝手に「同志よ!」と思った瞬間。
正直なことを言うと、その頃僕がRAG FAIRに抱いていた印象は「ファーなんか使いやがってズルい。」でした。デビューの瞬間からその後、洋輔さんはINSPiの事をどう思っていたのか、次回聞けるかもしれません。
(↑ サインの練習もしていたようです)
#3へ続く