人生の問題は一生解決できない
息子が中学を卒業した。いろいろある年頃だから、学校生活もいろいろあるかなと思っていたが、さした問題もなく、あっさりと義務教育期間が終わった。意外なほどあっさりと。
自分の中学時代といえば、集団が苦手な体質の影響で、なかなか苦しいものがあった。
そんな自分自身の「問題」に、思春期の頃は誰もが悩むのかもしれない。ただ僕はそれが少し強かったように思う。毎日教室という集団の中で座っているだけで息が詰まるようで苦痛なのだから、もうどうしようもなかった。そんな学生時代の苦しさに比べれば、今はイージーな人生だなどと放言してしまう時があるが、あながち言い過ぎでもないような気もする。
しかしだからといって、当時の「問題」が解決したかといえば、一切解決していない。今も集団が苦手で、人付き合いも苦手だ。今が楽なのは、それらがあまり必要とされない環境にいるから。それだけの話だ。
なのでけっきょくのところ、解決できてしまう問題というのは、そもそも問題ではない、と最近思う。集団が苦手な子どもは、大人になっても苦手だし、神経質な人は、いつまでも神経質だ。人であろうと仕事であろうと、合わないものは、いつまでたっても合わない。
本当の「問題」とは、ビジネス上で扱われる問題のような、「対策」や「管理」でなんとかなってしまうようなものではない。どちらかといえば薬も治療法も存在しない、いわば「持病」のようなものだ。
ゆえにそんな人生の諸問題と、どう付き合っていくかが、人生の質を決めているように思う。解決できない問題を、努力や熱意で解決できると信じ、あがき続けるのが「若さ(愚かさ)」であるならば、解決を諦めて、うまく付き合えるようになるのが「年の功」というものなのかもしれない。
解決できない問題は、石のように人生にのしかかる一方、道を選択する際には役に立つ。思春期の自分が渇望していたのは、「一人になれる空間」と「移動できる自由」であった。今が楽なのは、その二つを満たす生き方を選択できているからだと思う。逆にいえば、「問題」がなければ、無数にある選択肢に翻弄され、今も迷いの中に生きていたかもしれない。
問題によって、嫌なこともあれば、損をすることもあった。これさえなければもっと楽だったと思う。そして問題は一生解決できない。ただ同時に、問題を「愛すべき羅針盤」と捉えられた時、妙な納得感を自分の人生に見出せるているような気がして、これはもう拒絶するのではなく、寄り添って生きていくほうが得策だなと感じている。