人は「圧」によって自分の存在を認識しているのではないかという話
面白いツイートを見つけてしまった。
人は自分の存在を「圧」によって認識しているのではないかというツイート。かなり思い当たるところがあったので書いてみる。
HSP(過敏体質)よろしくな自分にとって、外界の圧に対して敏感なのは昔から実感していた。
その中でも特に人間の出す圧が苦手で、それがまとまる集団の圧は、昔も今も苦手というか嫌いというか、おそらく一生慣れることはないだろう。
ゆえに若い頃はその手の圧から逃れ、一人で自由に生きることが最適解のように思っていた。人里離れた場所で、一人で絵を描いたり、写真を撮って生きるお気楽人生、そんなのが自分にはふさわしいと思っていた。
しかし実際に完全に一人の環境に来てみると……待っていたのはお気楽ではなく、耐え難い不安と恐怖であった。「やっぱ東京人に一人は無理だわ」と、大自然の中で一人うろたえていたのは懐かしい思い出である。
おそらく人間は、物理的であれ、精神的であれ、外界からの「圧」によって自分の存在を確認する生き物なのだろう。
重力という「圧」があるから、僕らは地面に足をつけて生きていける。同じように社会という圧を感じることで、その社会に属している実感が持てる。他者からの圧によって、自分の存在を確認できる。
この圧が強すぎると問題だが、なさすぎるのもまた問題だ。重力という圧がなくなると僕らの肉体はコントロール不能になってしまうように、人との関係性という圧がなくなると、自分という存在の置き場所がなくなってしまう。
いわゆる「孤独」という感情も、圧がなさすぎる状態から発生する「無重力的な」不快感かつ不安感なのではないだろうか。
友人や家族、仕事相手など、僕らはさまざまな関係による圧の中で生きている。時にはその圧は億劫で、逃れたくもなるだろう。
しかしおそらく答えは、圧をなくすことではなくて、自分にとって適切な圧を選択することだろう。マッサージチェアで気持ちいい圧の強度を選ぶように、自分にとって快適な圧を適時調整するような感じだろうか。
こんなことを書きながら、まだ息子が幼い頃、彼がよく自分の上に、ゲラゲラ笑いながら乗ってきたことを思い出した。物理的にも、精神的にも、あれほど心地よく愛おしい圧はなかった。
圧は耐えるものでも、避けるものでもなく、調節するもの。これからも好きな人、好きなもの、好きな場所からの愛おしい圧を受けつつ生きていきたいものである。