「運」はどこにいった - DaiGo氏の主張と自己責任社会のミッシングパーツを探して
8月14日(土)雨
外は記録的な大雨。僕は2回目のコロナワクチンを接種した影響で発熱し、体がだるい。そんな中、メンタリストDaiGo氏の炎上発言を見てしまいさらに体がだるくなった。
もう大きなニュースになっているので内容に多くは触れないが、ホームレスや生活保護者の命の価値は自分の中では軽く、いないほうがよいと主張した上に、人類は彼らのような社会にそぐわない人間は処刑してきたという理論を展開。そして批判に対する反論として、文句を言っている人間より自分のほうが多く税金を払っているので、彼らを「保護している」と主張したのだ。
耳を疑った。僕は彼が知的な人間だと思っていたが、完全に間違っていたようだ。そこそこ知識のある人なら、上記の主張が浅はかなだけでなく、いかに危険で愚かなことかは説明するまでもないだろう。人の価値を損得勘定や自己責任でのみ判断する人間の行き着く先は、優生思想的なディストピアだということがここまで露骨に出る案件はめずらしい。
「運」はどこにいった
ただ現代にはDaiGo氏的な思想を助長させるような、自己責任論を肯定する風潮は確かにあって、彼一人を批判すればいいだけの話ではないと思う。その風潮は日本の道徳的な部分と結びつているので、なかなか否定するのは難しい。簡単にいえば「運」という概念の不在だ。
例えば下記のイラスト。
成功を収めている人の根っこには、努力や忍耐、苦悩や挫折があって、それらを乗り越えてきたのですごい!ということなのだろう。いかにも現代的な道徳観だと思う。しかし僕はそこに「運」という言葉がないところに、大きな違和感と、現代のドグマのようなものを感じてしまう。
今の自分を構成する要素として、遺伝、環境、親(家庭)など、様々な影響がベースとしてあることは間違いない。しかしながら、遺伝子は自分では選べないし、親も、育つ環境も、出会う人間すら自分で選ぶことができない。
ゆえに自分が今いるベースには、自分の力ではどうすることもできない「運」という強力なファクターが存在している。しかし現代社会は、上記のイラストと同じように、運の存在に蓋をしているように見える。
確かに「運」で物事が語られては身も蓋もないゆえ、教育の現場では扱いにくいことはわからなくもない。しかし運を除外して努力や訓練で、何でも成し遂げられると考えるのは、大きな誤謬だろう。運という大事なファクターに蓋をするから、自己責任という概念がまかり通り、誰もが生きづらくなってしまっているのではないだろうか。
今うまくいっている人は、それなりにがんばった結果であるという自負があるのだろうが、ではうまくいっていない人はどうだろうか?
仕事がうまくいかなくて無職になってしまった人は、何の努力もしていなかったのだろうか? 生活保護を受けている人は、毎日ダラダラ過ごしていたのだろうか?
はたまた、オリンピックでメダルをとれなかった選手は、メダリストよりも練習時間が短かったのだろうか? ウサイン・ボルトより速く走れない選手は、ボルトより苦労が足りなかったのだろうか?
世界はそんなに単純ではないことは、誰もがわかっているはずだ。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのは松浦静山という剣豪の名言だが、何がうまくいかないかはわかりやすい一方、何がうまくいくかはわからないものだ。
ゆえに誰だって今生きていられるのは、様々な人や環境に助けられ、導かれた結果でもある。決して自分の力だけではない。そんなふうに自分は運に助けられて生きているのに、なぜうまくいかなかった人に対しては「自己責任」などというのだろうか。明らかに矛盾しているし、態度としても卑怯かつ傲慢ではないだろうか。
複雑性極まる世界で、最後にものをいうのは間違いなく「運」であり、運の良し悪しすら、本人の責任にし、うまくいっていない人間の価値を否定することが許されるならば、まさに恐怖のディストピアという他ない。なぜなら誰だって今後どんな不運に遭遇かわからないからだ。
もっと運を意識するべき
なので、各自、もう少し自分の運について考えてもいいと思う。「自分の力でやった」と誇りたい気持ちもわからなくはないし、勝者総取りの資本主義社会においては、それも許されてしまうのだろう。しかし様々な影響や援助という、「自分以外の力」でできたピースの総合体として今があることを認識すれば、もっと重層的に世界を見ることができ、寛容になれるのではないだろうか。
もし自分が独立して食べていけるくらいの状況ならば、その運の良さをありがたく思うべきだろう。そして人を助けられるくらいの余裕があるならば、その運に感謝しつつ、運に恵まれていない人を助けるくらいの態度が、一番健全だと思う。そして仮に自分が運に恵まれない状況になったとしても、自分を必要以上に責めることなく、援助をありがたくいただきつつも、次の運を待てばいい。
みんなそれぞれの運の元で、それなりに良かれと思うことをがんばって生きていることだろう。その結果が社会的にどうかなんて、微々たるものではあるまいか。
自己責任社会では、うまく行った人はどこまでも称賛され、うまくいかなかった人はどこまでも落とされる。僕はそんなカースト制度のような社会に住みたくはないので、DaiGo氏の弱者を切り捨てる発想も、弱者を「守ってやっている」という態度も、大変害悪だと思うのでここで批判しておきたい次第。
ただその後Daigo氏は謝罪動画を上げ、今後ホームレス支援等の現場に行って勉強するとのこと。動画の発言はあまりにも酷かったので今は彼を軽蔑しているが、持ち前の勤勉さで新たな地平にたどり着いたならば、また応援していきたいと思う。