初詣の宗教アイテムは、願望の物質化
今年は息子が受験なので、初詣は学業の神様が祀られている太宰府天満宮に行ってきた。
息子のための学業のお守りと、高校に合格したら自転車通学をしたいとのことで、交通安全のお守りも購入した。
考えてみれば、若い頃はこういう授与品という宗教アイテムを買うことに、すこぶる否定的であった。こんな役に立たないものに金を払うなんてバカだと思っていた。
それが変わってきたのは、息子が生まれた頃からだと思う。わかってきたのだ。宗教アイテムは、自分の「願望を物質化」させたものであると。
幸せになってほしい。
受験がうまくいってほしい。
事故には遭わないでほしい。
などなど、愛する我が子が生まれれば、子育ての過程でさまざまな願望を持ってしまうのが親心である。
人間というのは面白いもので、そのような「思い」をアウトプットしたい欲があり、その受け皿の一つとして、宗教のアイテムがあるように思う。特にお守りのような授与品は、願望を物質としてアウトプットできる上に、携帯可能という優れものだ。
願望を言葉で伝えるのはその場限りで終わってしまう。息子が出かけるたびに「交通安全」を願うのも面倒だ。だがお守りならば、願望を神様のお墨付きのもと、息子のそばでアウトプットし続けられるのだ。
ちなみに今回複数の神社を巡って買ったお守りは下記。
息子の「学業成就」「交通安全」
家族の「無病息災」
自分の「商売繁盛」
宗教には願掛けがつきものだけれども、重要なのは神に願いを伝えることよりも、願望をアウトプットすることによって、自分自身をメタ認知できることのように思う。今年も息子の進路を応援しつつ、家族を守り、お金をたくさん稼ぐ1年にしたい、と自分は願っているようである(メタ認知)